【世界の独裁者③】毛沢東〜世界で1番多くの人を殺した独裁者〜歴史

教養/豆知識

世界で1番多くの人を殺した独裁者として今でも不名誉な記録を持つ人物は誰でしょうか?

ポルポトでもヒトラーでもスターリンでもありません。


その人物は、中国建国の父、”毛沢東”という人物になります。

図をご覧の通り、人を人と思わない剛腕な手法をとり、7800万人を死に追いやった独裁者になります。

その生涯について簡単に解説していき現代社会にいきる我々も改めて政治について考えましょう。

 

●プロフィール
中華人民共和国建国の父
毛沢東
生誕 1893-1976
出世 清 湖南省湘潭県韶山沖

 

●毛沢東の生涯
・毛沢東の誕生
1893年湖南省で生まれ、父親が養豚業や穀物商として働き裕福な家庭で育ちます。8歳頃から学校に通い始め成績優秀でしたが、優等生というわけではなく学校での態度は最悪でした。また、中国史などは成績が良かったのですが、算数や数学は全然ダメだったようです。

 

・当時の清
当時の清はイギリスはじめ西洋諸国から攻め込まれていてボロボロの状況でした。清は江戸時代の日本のように鎖国政策をとっていたので、西洋諸国から遅れをとっていたのです。そういった中、どんどん攻め込まれていき、国内では外国から学んでいくべきだとする意見が強まっていき近代的な科学や世界史や外国語を教える学校が国内に次々と建てられるようになっていきました。
勉強好きな毛沢東は近代的な学校に通うようになります。学校でなかなか折り合いがつかず、1日中図書館に籠り、西洋諸国の本の翻訳書を読むような生活を送っていました。また、学校の友達と主義思想を話し合うこともしておりました。この頃に「清時代からの脱却だ!革命を起こす!」と言うようになります。しかしながら、戦略的に具体的にどうしたいという案があるわけではありませんでした。

 

・小学校の先生になる
時が立ち、毛沢東は北京大学の図書館でアルバイトをしたりして、ふらふらしていましたが結局小学校の先生になります。
しかし、教師生活もなかなか身が入らない状態でした。教壇に立つと服装もだらしなく髪もボサボサでやさぐれた身なりだったようです。時には上半身裸で教壇に上がったこともあるようで、生徒に指摘された時に「下は履いているだけありがたいと思え!」と言ったとされており、いわゆる変人でした。

 

・社会主義思想との出会い
そんな中、清が滅び、毛沢東は社会主義思想を推進する革命グループと出会います。社会主義思想とは、お金や食糧といった国民の資産は国が管理し平等を目指すという思想になります。社会主義の究極体は共産主義であり、私有を禁止して全資産を全人類で共有するというものです。革命グループは中国共産党と名乗り、これに大きく共感した毛沢東は中国共産党の初期メンバーとして参加します。この社会主義という思想は当時のソビエト連邦から輸入されたものになります。この共産党にソ連は積極的に金銭的支援を行っていました。そこで、あくまで中国としての社会主義国家を考えている一部のメンバーにとってこのソ連の言いなりになってしまうという金銭的支援を有り難く受け取っている現状に不満がありました。しかし、毛沢東は職業革命家は良しとしてソ連の支援に対して全く抵抗がありませんでした。この頃の毛沢東はソ連から支援を受ける職業革命家という立場に甘んじている状態です。

 

・国共合作
ソ連から国内で力を蓄えるように一旦まずは勢力が大きい国民党に合流することを促されます。共産党内の大多数は反対でしたが、毛沢東はチャンスだと考えます。共産党が国の実権を握るにはソ連の力添えが不可欠で国民党の傘下になろうがソ連の言いなりになろうが、今は力を蓄えて機会を伺うのが最善だとしたたかに考えていました。毛沢東は、共産党そっちのけで国民党の中でも重要なポストにつくようになったのです。こうして毛沢東は、国民党と共産党から板挟みの状態になります。

 

・日中戦争
そうした中、日中戦争が起こり、国共で共同戦線することになり、一旦協力することになります。しかし、これは毛沢東の戦略で国民党を主に戦争で戦わせることによって国民党を弱める狙いがあったとされています。共産党のメンバーには、70%以上が領土の拡大に力を入れ、日本と戦うのは、10%でよいと発言していたようです。こうして、日中戦争が終わった後、共産党覇権を目論んでいたのです。
そして毛沢東の目論見通り、日中戦争後、国民党vs共産党の内戦が起こります。消耗していたとはいえ国民党は全面侵攻を各地方で行います。それに対し、人数に劣る共産党は山に閉じこもりゲリラ戦で対抗します。この作戦により、国民党軍は徐々に衰退していき資源もなくなっていきます。こうして粘って戦いながらソ連の支援を受けて共産党は勝利しました。

 

・中華人民共和国建国
共産党のトップとなっていた毛沢東は1949年中華人民共和国を建国します。ここから毛沢東をトップとする社会主義思想を確立していくことになり地獄となっていきました。毛沢東は人を惹きつけるカリスマ性はありましたが、国を運営する能力はなかったのです。
まず第一に行ったのが、農業を中心としていた中国をいち早く工業化する方針を打ち出しました。当時、世界初の社会主義国家であるソ連を参考にしたのです。
工業化を10〜15年で達成しようとしますが、市民の生活が犠牲になっていきます。教育、文化、福祉への支出はされず、工場を作る方にお金が注ぎ込まれたのです。また、外貨を手に入れるために自国で採れた農産物をどんどん輸出したので、国内では極端な供給不足が起こり餓死者が続出しました。

 

・徹底的な弾圧、監視社会
こうした中、政府に反抗する農民が続出しますが反抗的な態度を取ったものは次々と捕らえられ、生き埋めにされたり、鼻を削ぎ落とされたり、指を切り落とされたり、最悪の場合殺されるといった地獄の状況になります。毛沢東は、社会主義国家実現のためには、犠牲が出るのはしょうがないという態度でだったようです。
そして秘密警察による監視社会を敷くようになり、この監視社会により、飢えに苦しむ国民の声が毛沢東の耳にも入っていきます。しかし、毛沢東は「食べる量を減らせ。健康にいいぞ。」とごまかしたり「1年中ではなく4〜6ヶ月飢えに苦しむくらいだろ。」とめちゃくちゃな事を言っていたようです。

 

・工業化の失敗
毛沢東は他国から沿岸部を攻撃されることを見越して道路などインフラが十分整っていない内陸部に次々と工場を建設しました。当然、効率良く工場を稼働できずたくさんの工場が大赤字を叩きだしていきました。こうして国民の不満はどんどん溜まっていきました。そこで、毛沢東は国内での大規模な反乱を恐れて国民の意見をなんでも聞きますよというスローガン”百花斉放、百花争鳴”を掲げました。しかし、これは国民の意見を受け入れて改善していくというものではなく、反乱分子を炙り出して始末することで共産党の体制をより強固にするというものであったのです。後に毛沢東は、「蛇はねぐらから出せば簡単に捕まえられる」と常軌を逸した発言をしております。これは、共産党の限られたメンバーにしか言っていなかったため、状況を何も知らない政府に反対意見を言ってしまった国民は次々と殺されていきました。

 

・大躍進政策
ここで毛沢東は、大躍進政策という農業や工業の大増産計画を行います。内容は、人力で田畑を開墾させる、とにかく1箇所に同じ作物を植えまくる、農作物を荒らすスズメを皆殺しにする、すると天敵の居なくなったイナゴ大量発生して作物が食い荒らされるというとんでもなくめちゃくちゃな政策でありどんどん失敗に終わることになります。国民が大量に飢えて死んでいっても毛沢東は「死は結構。土が肥える。」とまで発言していました。「世界革命成功には、3億人の犠牲が必要であり、中国ではよくあることだ。半分残れば万々歳」といった発言も残っているようです。
農業が壊滅的であった中、工業も絶望的な状況でした。毛沢東は鉄の生産量を増やすために一般市民に土で溶鉱炉を作らせて鉄で出来たものは何でも溶鉱炉に入れさせました。ヤカンや鍋などの調理器具や農機具、ドアの取っ手や女性の髪留めなど何もかも溶鉱炉に入れさせたのです。そして燃料として家の建材や屋根材を使わせました。この溶鉱炉を見守るために農業などの仕事が出来なくなり、住む家も持ち物もなくなったのです。この大躍進政策により、3800万人が餓死や過労死などの犠牲になったと言われています。そして、一般市民に作らせた溶鉱炉では肝心の鉄は出来ず、結果全てが鉄屑になったのでした。この大躍進政策には、あの毛沢東も”実りが少なく失敗は余りある”とさすがに大反省していたようです。

 

・共産党内の反発、紅衛兵、文化大革命
大躍進政策により、共産党幹部も飢えに苦しんでいたので毛沢東の愚策に反発するようになっていきます。毛沢東の今までの政策は破滅的であり、政策を破棄すべきであると徹底的に追求されるようになります。こうして反発の声を抑えきれないと判断した毛沢東はナンバー2に地位を譲り一旦降格することになります。しかし、毛沢東は復讐のチャンスを狙っていたのです。一般市民に目をつけ様々なロビー活動を実施します。肖像画を12億枚印刷したり、バッジを48億個作ったりしました。
これにより、毛沢東思想にはまる国民も増えていきます。特に学生達に目をつけ「教師はゴミだ!叩いてしまえ!」と学生達に焚きつけました。最終的には、「授業は中止だ!君たちを縛りつける者全て抹殺しろ!」と呼びかけ、学生達は社会主義に反対する教師や知識人などを抹殺していきました。
この中国の毛沢東を支持した青少年が組織した先鋭的な運動体を紅衛兵と言います。そしてこの運動が文化大革命であり、3000万人が殺されたと言われている。

 

・毛沢東の再建と最期
人民からの支持を無理矢理勝ち取り、毛沢東は再び政権トップに返り咲きます。ここからさらに中国を再建していこうとする毛沢東に病が襲いかかり、1976年に82歳で死去しました。
この毛沢東に対する国民の評価としては、7割が功績であり、誤りが3割だと見ているようです。

 

●語録集
・清時代からの脱却だ!革命を起こす!
・下は履いているだけありがたいと思え!
・食べる量を減らせ。健康にいいぞ。
・1年中ではなく4〜6ヶ月飢えに苦しむくらいだろ。
・蛇はねぐらから出せば簡単に捕まえられる
・死は結構。土が肥える。
・世界革命成功には、3億人の犠牲が必要であり、中国ではよくある。半分残れば万々歳
・教師はゴミだ!叩いてしまえ!
・授業は中止だ!君たちを縛りつける者全て抹殺しろ!

 

●感想
ソ連のスターリン同様に反乱分子を徹底的に弾圧するという姿勢と何か楽しんでいるようにも見える政策は内容を知れば知るほどゾッとしてきます。
毛沢東の国民の評価として、7割が功績であり、誤りが3割だと見ています。つまりほとんどの国民が評価をしているという現実はなんだかやるせない気持ちになります。今でも中国は、中華思想として他国を虐げ、また他国と争う姿勢を崩すどころかどんどん拡大していってます。おかしな国だと一言で片付けるのではなく、反面教師として学ぶところがたくさんあるはずです。日本人としてもこれからも中国のことを引き続き注視する必要があるでしょう。

 

~世界の独裁者シリーズ~
【世界の独裁者①】スターリン〜2000万人を死に追いやった男〜歴史
【世界の独裁者②】ポル・ポト〜国民の1/3を殺した姿なき独裁者〜歴史
【世界の独裁者④】ムッソリーニ〜ヒトラーが師と仰いだイタリアの独裁者〜歴史
【世界の独裁者⑤】ヒトラー~世界を震撼させたドイツの独裁者1/2~歴史
【世界の独裁者⑤】ヒトラー~世界を震撼させたドイツの独裁者2/2~歴史

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