【イラン・イスラム革命】アメリカとイランはなぜ仲が悪いのか!?

教養/豆知識
Demonstrators hold a poster of Ayatollah Ruhollah Khomeini, in January 1979, in Teheran, during a demonstration against the shah. (Photo by AFP)

今回は久しぶりの革命シリーズになります。

その中でも今まで扱っていませんでした中東について語っていきたいと思います。

中東というとどうも物騒なイメージがありますよね。

そんな中東を代表する国としてイランがあります。イラクと名前が似ててややこしいですよね。

イランはとにかくアメリカと仲が悪い。イラクと戦争をしている。そんな国です。

イラン革命ってワードを聞いたことがことがある人もきっと少なくないと思います。

今回はそんな中東のイラン、またイラン革命について簡単にご紹介いたします!!

 

●イランという国は?ざっくり解説
国名:イラン・イスラム共和国
国旗:

 

 

 

 

面積:1,648,195km2(日本の4.4倍)
人口:8,399万人(2021年時点)
首都:テヘラン
民族:ペルシャ人(他にアゼリ系トルコ人、クルド人、アラブ人等)
言語:ペルシャ語、トルコ語、クルド語
宗教:イスラム教主にシーア派(他にキリスト教、ユダヤ教、ゾロアスター教等)
場所:
 
北はカスピ海、南はペルシャ湾、オマーン湾に面しています。
接している国は、トルコ、イラク、パキスタン、アフガニスタン、トルクメニスタンなどになります。
こうして見ると、ロシアとも非常に近い位置にあることが分かります。

●イラン革命とは?ざっくり解説
日本からずっと離れた場所にイランという国があります。

正式な名前はイラン・イスラム共和国でイスラム教の国になります。昔はペルシャと呼ばれていました。ペルシャ絨毯やペルシャ猫が有名ですよね。

今から100年くらい前にレザー・パフラヴィーという王様が国を治めるようになると、国の名前をペルシャからイランに改称しました。

このパフラヴィー朝の時代の時に不平等条約の撤廃に成功しますが、国内の石油利権はイギリスが保持しておりました。

そして、枢軸国と連合国が争う第二次世界大戦が起きるとイランはどちらの味方も加担もしない”中立”を宣言します。

イランは石油が多く採れる国ですが、油田を掘っている石油会社はイギリスの会社でほとんどの儲けはイギリスが取っていってしまいます。

イギリスと当時イギリスの植民地であったインドは石油の会社を守るために、そしてソ連は石油を手に入れるためにイランに攻めてきました。

レザー・パフラヴィーはアメリカに助けを求めましたが、断られてしまいました。

さらにイランはイギリスやソ連といった連合国側の敵である枢軸国のナチスドイツと仲が良かったのでレザー・パフラヴィーは無理やり王様をやめさせられてしまい息子であるパフラヴィー2世が新しい王様になりました。

このように連合国の干渉により、イラン国内は混乱し経済は悪化していきます。第二次世界大戦後の経済悪化の立て直しとして目を付けたのが石油の国有化になります。当時の石油利益配分はイランが7%、イギリスが93%となっていたのです。

1951年にモハンマド・モサデグ首相はイギリス資本の石油会社の国有化を宣言します。←

イランの人々は喜びましたが、イギリスは激怒します。イギリスはヨーロッパの国々やアメリカに声をかけイランの石油を売らせないようにしました。

さらにイギリスの船はイランから石油を買った船を捕まえたりしました。これはアーバーダーンというところから石油を掘っていたのでアーバーダーン危機と呼ばれています。

その頃日本では戦争に負けて石油もロクに入ってこず大変苦労しておりました。出光興産の出光佐三はイランが困っていることを知り危険だと分かった上で石油を日本に運びます。

これは船の名前から日昇丸事件といいます。この内容は「海賊と呼ばれた男」という小説や漫画や映画になっており大変有名なエピソードになります。

話はイランに戻り、1953年にアメリカとイギリスが協力しクーデターを起こされてモサデグ首相は追い出されてしまいます。

そしてパフラヴィー2世はアメリカの支持の下、農地改革を行ったり、女性参政権を実施したり、国営企業民営化を行ったりします。これを”白色革命”といいます。

しかし白色革命はあまり上手くいかずイラン国民からブーイングが起きます。パフラヴィー2世は反対する人々をサバックという秘密警察を使って捕まえていきます。

そしてイスラム教で権威のあるルーホッラー・ホメイニはパフラヴィー2世を批判したため、パフラヴィー2世はホメイニを捕まえて国外追放します。

イランの中はどんどんアメリカ式に染まっていき貧富の差が拡大していきました。

イランの人々の不満は大きくなっていきますが、ある日新聞にホメイニを馬鹿にする内容の記事が載ったことで人々は怒りデモや暴動が多発するようになります。

パフラヴィー2世は軍でこれを抑えようとしましたが上手くいかずボーイング727を自分で操縦してエジプトへと国外逃亡しました。

そして15年ぶりにルーホッラー・ホメイニはイランに舞い戻ってきます。これを”イラン革命”といいます。

ホメイニーはイスラム教を基盤とした国を作っていきました。それまで仲の良かったアメリカとは険悪となり、さらにアメリカが元王様のパフラヴィー2世を受け入れたのをきっかけにイランアメリカ大使館人質事件が起こりイランとアメリカの関係はますます悪くなっていきました。

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