【世界の独裁者⑤】ヒトラー~世界を震撼させたドイツの独裁者2/2~歴史

教養/豆知識

プロフィール「30歳、ニート、無職、自称芸術家」と聞くとほとんどの人がダメ人間、終わっていると思うのではないでしょうか。
しかし、この人物は後に世界を巻き込む戦争を起こし、世界経済の状況を大きく変えました。
そう、この人物はナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーになります。

今回は、前回の【世界の独裁者⑤】ヒトラー~世界を震撼させたドイツの独裁者2/2~歴史の記事に続きましてヒトラーのことについてさらに詳しい情報を紹介したいと思います!この歴史は現在の私たちがもう一度目をそらさず考えなければならないものだと感じましたので僭越ながら掲載させていただきましたので是非御覧下さい!
こちらの記事は私が大好きなyoutubeチャンネルであるcotenラジオを参考にしております。

 

●ヒトラーとは・・・
ヒトラーの生まれはオーストリアになります。ドイツのイメージが非常に強いですが、オーストリアとドイツの国境沿いのぎりぎオーストリアの出身になります。彼を一言で言うとすれば、偏屈なアーティスト、エネルギーの源は怒りといった非常に癖が強い人物といった感じになります。
また「軍事的能力はない。」「人をマネジメントしてモチベートする能力がない。」「物事を順序立てて進める能力はない。」「忍耐力はない。」しかし、「怒りのエネルギーで人の怒りを煽るという才能が死ぬほどある。」という現代でいえばインフルエンサーとしての才能が非常に高い人物であったと言えます。
また、ヒトラーは、自己確信力、自分を信じる力が非常に強く、自分が言ったことを信じて疑わない、自分の意見を妥協しない、また人の意見に迎合することをしないという性質を持っております。しかし、自分のオリジナルの思想がある訳ではなく、特に思想を強く描いているというわけではなかったとされています。
そんなヒトラーは30歳まで職もなくニート生活を送り絵を売って生きていたのです。なんとホームレスも経験しています。そんな彼を変えたのは第一次世界大戦の兵役での経験になります。この経験が彼が政治家となるきっかけとなり、あの有名な独裁者ヒトラーとなっていくのです。
そして、ヒトラーを考える上でこの2つが気になるポイントとしてcotenラジオで取り上げております。

①30歳までニートだった人間がどうやって国のトップまで上り詰めたか?

②民主主義国家でどうしてユダヤ人迫害が起きたか?国家的に起こったのはなぜか?

この謎について解明するために、ここからは彼の詳しい生涯について紹介していきたいと思います!まずは、ヒトラーの幼少期から迫っていきたいと思います。

 

●生涯
-落ちこぼれの幼少期 ~10代前半

ヒトラーは子供の頃から落ちこぼれであった。ヒトラーの父は小卒だが、税管理いわゆる役人であった。とても厳格な人物であり、体罰などをヒトラーは日常茶飯事に受けていた。また、ヒトラーの父親は3人の妻を抱えており、ヒトラーは3番目の奥さんの子供であった。一方、ヒトラーの母親は非常に過保護であった。ヒトラーの前に3人子供を病気で失ったことにより、必要以上に過保護に育てられた。そんなヒトラーは母親を溺愛しており、著書『我が闘争』でも母親への愛を書いている。一方、父親に関しては『我が闘争』では尊敬していると書いているが、おそらく心底嫌っていると考えられる。
ヒトラーはかねてより芸術系の学校に行きたかったが、父親は頑なに実務系の学校に入れてしまう。ヒトラーは、小学校の頃から成績も悪く落ちこぼれであり、あげくその原因は全部教師にあると言っていたとされる。そんなヒトラーであるが皮肉な話であるが、父親とすごくタイプが似ている。大嫌いな父親であるが。。女性差別が激しいといった点も父親と似ている。

 

-30歳までニート生活、兵役 16~30歳
ヒトラーが16歳の頃、父親が亡くなったため実務系の学校をやめることとなる。そして、そこから2年間ほどニート生活となる。お母さんとおばさんと妹が身の回りのことを全てやってくれて自分は何もやらないという生活を始める。絵も描いたりするが、ほどほどに行うくらいであった。また、人物画は描けなかった。彼は、人生を通して人から愛されることが非常に少なく、唯一の存在は母親か愛人くらいであった。
そしてヒトラーは、ウィーン芸術アカデミーに入りたいと考えるようになり、受験するためにウィーンに行く。おばさんから今でいうと1000万円くらいのお金をもらって行ったとされる。ヒトラーには唯一”クビゼック”という友達がおり、ヒトラーの芸術の論評に感嘆するような人物であった。そして、2人でウィーン芸術アカデミーを受験するが、ヒトラーは落ちてクビゼックは合格してしまうのである。これにより、ヒトラーはクビゼックと縁を切ってしまう。
ヒトラーは翌年も受験するが不合格となり、ウィーン芸術アカデミーをクソと罵った。そして、ここからホームレス生活となるのである。一説にはこれは、オーストリアの兵役を逃れたのではないかとされている。この時にはヒトラーは、絵を売り、日銭を稼いで生活していた。しかし、この状況においてもヒトラーは自分には才能があり、認めてくれない世の中がおかしいと考えていた。
そして、第一次世界大戦が勃発する。この時にはマシンガンのような大量殺戮兵器が生まれている。ヒトラーは伝令兵という役職で戦地と指令本部の間を行き来するということを行った。ヒトラーはここで初めてチームとして何かに帰属するという経験をする。元々、祖国(ドイツ帝国)のために尽くすという思考性に関して非常に強かったヒトラーはものすごく尽力する。そして、昇進こそしないが、そこそこ活躍したヒトラーは初めて人から評価されるという経験をする。しかし、ドイツは敗戦し、ベルサイユ条約を結ばされることとなる。敗戦後、ワイマール共和国となったドイツはすさまじい賠償金をフランスから課せられるが、後にこの反動から生まれたのがナチスである。ナチスの前身自体はそもそもヒトラーが作ったわけではなく、ヒトラーは組織の7人目くらいの立場であった。
ヒトラーは、この時、莫大な賠償金を課せてきたフランスなどの戦勝国や新しくできたワイマール共和国の不甲斐なさにもキレている。この怒りのエネルギーがヒトラー率いるナチスのエネルギーの源である。彼は、個人ではなく国として考えており、ファシズムという考え方、いわゆる全体主義思想であり、国のために全て奉仕しなければならないという考え方である。敗戦後、ドイツは失業者が増えハイパーインフレになってしまう。また自殺者が大量に出るという状況であった。
「お父さんが戦場で死ぬ、戦争中も栄養失調になる人が3割というまともに物が食べられない、そして成長してもまともに仕事が出来ない経済状態」という人生を過ごしてきた若者たちが後にナチスとなっていくのである。

 

-戦後、弁舌能力開花、政治家に 30代前半
ヒトラーは終戦後も軍隊に残ろうとする。これは、戻っても仕事がなくニート生活に戻ってしまうので執着したのではないかと考えられる。そんなヒトラーは、弁舌の能力について軍隊の上司に認められており、兵隊にナショナリズムを教えるという先生としての役職を与えられ、ここで才能が開花する。こうしてドイツの将来の希望のない若者たちの怒りを助長していったのである。後に、ヒトラーは本当に自分の考えを正しいと感じ国のために私利私欲なく義務感としてユダヤ人を殺害していったのである。見方によれば、彼は彼の中の正義を貫いたのである。この時期に右派の教授の話を聞き自分の中で吸収し、『我が闘争』にも書かれているがこの経験が彼の思想の根幹となる。つまり、自分オリジナルの考えや思想は特になく、アーリア人に対する信仰、人種差別が思想の特徴である。いわゆる優生学を信仰したのである。当時はこの優生学がアカデミックに世の中に広まっていた。この考えがユダヤ人という血が混ざらないために追放する、しかし追放することも限界があるので最終的に抹殺という悲劇を生んでいったのである。この優生学なる思想はヒトラーの師であるムッソリーニも同意せず否定している。いわゆる社会ダーウェニズムという思想であり、アジアは進んでいないなので植民地にして発達させようという考えも持っており、アフリカやスラブ人に対してもそう考えていたようである。
こうした中、ミュンヘンのある集会のスパイとしてヒトラーは参加した。ある左派の意見にヒトラーは反論し、見事論破したのである。これが右派の党首であるドレイクスラーの目にとまり、ヒトラーはドイツ労働者党に加入することとなり、政治家としてデビューし、そして後に党首となるのである。労働者党においても喋りで頭角を現していく。小さな政党であったこのドイツ労働者党をメキメキ拡大していき、お金も人もヒトラーが集めていたのである。時がたち、党首のドレイクスラーは、当時のドイツの右派の党を集めて合併してしまう。このことでヒトラーは労働者党を辞めてしまう。これに焦ったドレイクスラーはヒトラーに戻ってほしいと嘆願したところ、ヒトラーは権力を自分にくれるのであればという条件で復帰するのでありこれがのちにあの有名なナチスとなる。
復帰したヒトラーはまず、基本中間層向けの政治を行っていく。
そして、スピーチのテンプレートとしては、①ドイツの悲惨な状況を語る。 → ②それも静かに語る。 → ③そこからその原因に触れていく。 → ④そしてキレながら仮想敵を述べてそれを倒すことを主張する。
という流れであった。こうしてナチスが徐々に人気になっていくが、しかし、まだまだトップ政党ではなかった。

 

-ナチス、独裁者への道 30代前半~40代前半
賠償金をなかなかドイツが払わない(払えない)ので、フランスがキレてドイツのルール工業地帯を軍隊によって無理やり奪ってしまう。これにドイツ国民がキレ、またヒトラーは政府にクーデターを起こす。いわゆるミュンヘン一揆である。しかし、これが失敗に終わり、ヒトラーは投獄されてしまう。この投獄中に書いたのが『我が闘争』である。この時、ヒトラー33歳である。(30歳までヒトラーは先述の通り、ニートである。) ここで、ヒトラーはこのクーデターは自分の全ての責任でやったと主張し、右派から英雄視されることとなる。これは戦略的に言ったとされる。
こうしてクーデターが失敗したので党の方針を民主主義にして、今度は選挙で勝とうとしたのである。選挙で戦い勝つための”プロパガンダ”をゲッペルスが担当する。ナチスは、ラジオや映画を使い、民衆を扇動し、中産階級や中産階級以下を洗脳しトップ政党となるのである。
1929年、世界恐慌が起こった時にナチスは一気に盛り上がったが、しかし、まだ37%の支持率であった。この時、ワイマール共和国のヒンデンブルグ大統領が権力を持っていた。国家が非常事態の場合、法律と憲法を無視して、大統領が支持を出すことが出来るという権限が大統領には与えられていた。ヒンデンブルグ大統領は生まれはドイツ帝国であり将軍出身である。ドイツ帝国はもともと貴族主体であり、ヒンデンブルグは民主主義で大統領に選ばれたにも関わらず、民主主義に否定的であった。ドイツのひどい状態を見たヒンデンブルグは個人的な考えで民衆に人気がある人物に独裁権を渡した方がいいだろうと考え、この時37%の支持率を誇っていたナチスのヒトラーに権限を渡してしまうのである。ここで、ヒトラーは全権限をここで手に入れたのである。ヒトラーはヒンデンブルグ大統領に取り入っていたと考えられるし、何より、ヒトラーの考えにヒンデンブルグ大統領が共鳴したのである。共産主義思想を掲げる共産党に反対派の立場であるナチスにも有利に働いたと考えられる。

 

-第二次世界大戦、ユダヤ人虐殺 40代後半~50代前半
意外にも、ナチスの前期は国民に非常に評価されている(ユダヤ人以外)。失業者の割合の減少、アウトバーンの設置、ベルサイユ条約への破棄、軍備増強を図るといったことを行っていく。
そして、第二次世界大戦に突入する。ドイツがポーランドに参加したことで勃発する。ソ連を植民地にしようとしたヒトラーは、ソ連の途中にあるポーランドに鉄道を敷こうとしたが、拒否されたため、ポーランドに侵攻する。イギリス、フランスはもう戦争を起こしたくないという立ち位置であり、それによってできたのが国際連盟である。ドイツがポーランド攻めたことでイギリス、フランスが参戦することになる。イギリスはこの時、チャーチルに政権が変わる。そして、ドイツはフランスに参戦し、1週間程でパリが陥落することになる。次にドイツはイギリスを攻めて空爆をして民間人を殺していくが、イギリスの首相のチャーチルがここで徹底抗戦する。そして、イギリス軍がドイツ空軍を追い返し、イギリスに攻めきれないドイツは次にソ連を攻める。
そこで、あの有名なホロコーストが行われる。ホロコーストの内容は、当初は、ユダヤ人の社会福祉を停止し、年金などの保障をされないようにし、生活保護レベルに貧困化させて、次にゲットーという居住区に送り栄養失調にさせるということを想定していたとされるが、最終的に強制収容所に送るという残虐な行為となる。このホロコーストと呼ばれるユダヤ人虐殺はポーランドで主に行われた。ユダヤ人の血が混じったことが全ての元凶であるという考えである。まず、ユダヤ人をヨーロッパから追放することをヒトラーは考え、アフリカに追放するか、ソ連の方に追放するか2択であったが、アフリカの方は企画段階で亡くなる。そして、ポーランドにユダヤ人居住区のゲットーを設けた。先述の通り、元々ナチスはユダヤ人をゲットーに送ることしか考えていなかった。そして、食事を制限し、女性の8割が月経がなくなったとされる。これにより、じわじわユダヤ人、特に子供が亡くなっていく。ポーランドにおいてユダヤ人をどんどんゲットーに送り続けるが、人数によるキャパシティーの限界が出てくる。こうして、ナチスは追放ではなく会議で強制収容所に送る大量虐殺を遂行することを決定する。いかに数を捌くか、機械的に減らすかを考えている。ナチスは、ユダヤ人だけでなく、精神障害者や身体障害者も優生学の考えで生きる価値がないという思想を持っていた。強制収容所で働く職員はユダヤ人を憎みすぎている人を雇わなかったそうである。これは殺すペースが落ちるからだとされている。あくまでいかに効率的に殺すかを考えているかを物語っているエピソードである。

 

-ヤク中、自殺 ~56歳没
ヒトラーはその後、ソ連に攻められて地下に隠れて過ごす。ヒトラーはノルマンディー上陸作戦で負けたあたりから精神的に不安定になり、覚醒剤を摂取する。これはヒトラーの主治医によって打たれており、主治医は基本的に医学に対しての知識が全くなく、ヒトラーが夜眠れず寝不足だという訴えに毎朝覚醒剤を摂取されていたのである。これにより、一気にドイツは崩壊し、敗戦となる。こうして振り返るとオーストリア人がドイツにやってきてドイツをめちゃくちゃにしたという悪夢のような悲劇なのである。

 

●感想
cotenラジオの中では、「司法、行政、立法の機能をすべて持っている、権力を下す術がシステムとして存在しない、これが独裁者の条件である。危機的状況の時に、とても能力が高い人に全権を委任した方が危機的状況から脱しやすいという傾向が生まれる。この時に独裁者が生まれやすい。」と語っておりました。
ヒトラーがここまで上り詰められたのは、ラジオや映画などのメディアの技術があがりプロパガンダを巧みに操ることが出来たためだと考えられます。当然、ここには担当であったゲッペルスが絡んでおります。この時代、この技術が整っていたからこそヒトラーという独裁者が生まれたのだと改めて感じました。最終的に一国の主がヤク中となって、自殺するとか嘘だと思いたくなるようなゾッとする話以外の何物でもありません。
しかし、戦争は、一つの国がおかしい、誰かが間違っているから起きたという簡単な話ではなく、当時の世界情勢やそれぞれの国が置かれている状況、またその背景によって複雑な要因が絡み合って発生するものだと思います。第一次世界大戦後、多額の賠償金をベルサイユ条約でドイツに結ばせた戦勝国側にも問題があったのではないか、それがヒトラーという独裁者をある種生んだのではないか。このように歴史を振り返って自分なりに色々な考えや意見を持つようにしたいと思います。

 

~世界の独裁者シリーズ~
【世界の独裁者①】スターリン〜2000万人を死に追いやった男〜歴史
【世界の独裁者②】ポル・ポト〜国民の1/3を殺した姿なき独裁者〜歴史
【世界の独裁者③】毛沢東〜世界で1番多くの人を殺した独裁者〜歴史
【世界の独裁者④】ムッソリーニ〜ヒトラーが師と仰いだイタリアの独裁者〜歴史
【世界の独裁者⑤】ヒトラー~世界を震撼させたドイツの独裁者1/2~歴史

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