ヒトラーから世界を救った男!?イギリスの元首相チャーチルとは

教養/豆知識

『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』という映画が2018年に日本で公開され話題になり、チャーチルという名前を聞いたことがある人はおられるのではないでしょうか。
あのナチス・ドイツのヒトラーに立ち向かい、イギリスを勝利に導いた人物となります。世界を救ったかどうかは様々な解釈があるかと思いますが、ヒトラーがもし第二次世界大戦で勝利していたら世界の状況は大きく違ったものになっていたことでしょう。そういった意味では、世界に大きな影響をもたらしたことには間違いないのではないでしょうか。
今回は、そのイギリスを勝利に導いたチャーチルについてご紹介したいと思います!

 

●プロフィール
名前 ウィンストン・チャーチル
出身 イングランド オックスフォードシャー ブレナム宮殿
出世 1874年〜1965年(91歳没)
名門貴族の出身、イギリス元首相

 

●生涯
-落ちこぼれの幼少期
1874年、チャーチルは貴族の家の子として生まれる。父親のランドルフ卿は兄と王太子の愛人争いに首を突っ込んで社交会で立場を失い、アイルランド総督に任命され、チャーチルを伴って家族とアイルランドに移住した。幼少期のチャーチルは、乳母が好きで8歳になるまで側を離れることはほとんどなかったとされる。そして、チャーチルは幼少期から勉強が大嫌いでいわゆる落ちこぼれ生徒であった。8歳になると父の勧めで聖ジョージスクールに入る。しかし、勉強嫌いで体力もなくクラスメートからも嫌われており問題を抱えた生徒だった。校長にもよく罰として鞭打ちをされており、この学校にはいい思い出がなかったと後年語っている。そしてブライトンにある名もなき寄宿学校に入学する。この学校は居心地がよく「私がこれまでの学校生活で味わったことのない親切と共感があった。」と回顧している。この頃からチャーチルは父親が大物政治家として扱われているのを聞いて嬉しくなり、政治に関心を持つようになった。
1888年、14歳の時にパブリックスクールの入試を受け、いまいちな結果であったが父親の政治家の力もあり校長の判断で合格となる。ただ、クラスは最も落ちこぼれのクラスであった。この学校には士官学校への進学を目指す軍人コースがあり、父はチャーチルにはこれしかないと考えていた。しかし士官学校の入試を2回落ちて陸軍学校入試用の予備校に入学する。3回目の試験には見事合格し、18歳で士官学校に入学する。成績は良くなかったので、歩兵科ではなく騎兵科に配属された。
1895年、21歳の時父親が亡くなる。ここからチャーチルは父の意思を継ぎたいと考えるようになる。そこからは軍人としてキューバ反乱鎮圧戦の観戦やイギリス領のインドに勤務、スーダン侵攻に従軍し、そのことを『河畔の戦争』という本にまとめている。
1899年、25歳の時除隊して選挙に初挑戦する。

 

-落選からの保守党当選
初選挙は落選した。その後同年、10月に起こった第2次ボーア戦争(独立ボーア人共和国であるオレンジ自由国及びトランスヴァール共和国とイギリスとの間の戦争)に中尉階級でありながらモーニング・ポスト紙の特派員となり、民間のジャーナリストとして戦地に行く。民間のジャーナリストとして参加し装甲列車に乗せてもらっており、途中ボーア人の攻撃を受けて脱線し、チャーチル含むほとんどの者が捕虜になってしまう。プレトリアの捕虜収容所に収容されたチャーチルは民間人なのですぐに釈放されると思っていたが、英字新聞がチャーチル中尉の勇気ある行動を称える記事を載せたことで民間人に偽装したとして戦争法規違反で銃殺される可能性もあった。そこでチャーチルは夜、便所の窓から脱走して元イギリス人の帰化したトランスヴァール人の家に匿ってもらった後、貨車に乗ってイギリス領事館にたどりついた。このチャーチルの脱走劇は、戦意高揚のいいエピソードとなった。さらに包囲されるイギリス軍の救援作戦に参加し、1900年、26歳の時のプレトリア占領の際にはチャーチルは真っ先に自分が収容されていた捕虜収容所に向かい、イギリス国旗を掲げて復讐を果たす。トランスヴァール共和国の首都プレトリアを占領したことによる戦勝ムードの中、首相と植民地相はここで解散総選挙をすれば有利な議会状況を作れると踏んで、同年、トランスヴァールの併合宣言を総司令官に出させるとともに議会を解散する。チャーチルはこの総選挙に再び保守党公認候補として出馬する。今度の選挙は、脱走劇で名前が売れていたチャーチルが有利であった。そしてついに当選することとなる。しかし、当選後もチャーチルは苦戦する。ボーア戦争は、侵略戦争であり、そのことを散々追求され弁明に追われた。

 

-保守党脱退、社会主義の否定、自由党再当選
そんなチャーチルは、当選後最初に目指したのは、父が大蔵大臣として取り組もうとした陸軍予算の削減だった。しかし、当時、与党である保守党は陸軍の拡大を推進したため、反対のチャーチルは党内で徐々に浮いた存在となっていってしまう。決定打は保護貿易への反対である。第二次ボーア戦争は1902年に講和条約が結ばれて正式に終結していたが、長期戦による膨大な戦費をもたらし、1900年以降イギリス財政が赤字となっていった。それを解消するためイギリスの圏外に関税をかけろと植民地大臣だったジョゼフ・チェンバレンが主張していたのである。このように揉めていた保守党を見限り1904年、遂に今度は自由党公認候補として出馬する。1906年に選挙にも勝利して順調に足場を固めていった。1908年、アスキス内閣で通商大臣として入閣する。当時のイギリスには入閣する際に議員辞職して再選挙しなければならないという法律があったので、チャーチルも議員辞職して、補欠選挙に出馬した。裏切ったチャーチルを落とすために保守党は全力を挙げた結果、チャーチルは僅差で落選してしまう。そこでスコットランドで補欠選挙が行われることとなり、出馬を要請されたチャーチルは承諾する。チャーチルも自由党票を固めるため労働党批判を中心的に行った。チャーチルはこの選挙で初めて社会主義へ敵意を露わにして社会主義攻撃を展開する。その結果、チャーチルは大勝する。

 

-結婚、頭角を現す
1908年、33歳の時にチャーチルは結婚する。そして、チャーチルは商務大臣にまで上り詰める。当時のイギリスの失業率は7.8%ととても高かった。労働党の労働権の確立を訴える運動が盛り上がり、それに対抗するために社会政策を実施する。社会主義が嫌いなチャーチルであったが、遊説の際にスラム街を見て、社会政策の必要性を痛感していた。チャーチルは商務大臣として職業紹介所と失業保険制度を導入して国民から歓迎され、至る所で親愛なるチャーチルと歓迎されることとなる。チャーチルはこうして一定の地位を確立する。一方、イギリス自体は国際的な地位を後発の資本主義国の発展に押されて低下の一途をたどっていた。その中でドイツがイギリスに急追しており、ドイツ皇帝のヴィルヘルム2世は海軍力を増強して帝国外交に乗り出し、世界中でイギリスを脅かすようになっていた。これにチャーチルは対抗せず、海軍増強よりも社会保障を重視して、閣僚と意見対立を深めていた。「ドイツには戦う理由も、戦って得る利益も、戦う場所もない」としてドイツ脅威論を一蹴した。これは自由党急進派を自分が指導しようという野心から反対しているとされている。チャーチルは自らの野心を大義で覆い隠すのが得意であった。社会保障と海軍費で財政が圧迫されていたので金持ちから税金を取ろうという人民予算についても紛糾する。こうして次の選挙ではチャーチルが所属する自由党は苦戦を強いられ、過半数割れが起こるが、35歳という若さで内務大臣に就任する。そして、チャーチルは内務大臣としてドイツとの戦争準備に奔走する。ついにチャーチルは軍備拡張に動くのである。
1911年、36歳で遂に海軍大臣に任命される。軍艦の燃料を石炭から石油にするため、中東の石油利権をより強力に掌握して海軍航空隊の創設と育成にあたる。この強硬論は内閣や党内に不和をもたらしたが、チャーチルが増額した海軍予算案を発表した時には、与党自由党からではなく、海軍増強を主張していた野党の保守党から喝采されるという珍現象が発生した。

 

-第1次世界大戦、チャーチル落選
1914年のサラエボ事件を機にドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国vsロシア、フランスの第1次世界大戦が勃発する。当時イギリスはロシアともフランスとも正式な軍事同盟は結んでいなかったので参戦義務はなく、閣内でも参戦するか否か意見が分かれていた。ここでチャーチルは熱烈に参戦を希望してドイツがロシアに宣戦布告した時に独断で海軍動員令を出す。チャーチルはもし、戦争賛成反対で内閣が分裂するなら反戦派を容赦なく追放し、保守党と連立政権を作るべきだと主張した。こうして、ドイツ軍がベルギーの中立を犯してイギリスに侵攻を計画していることが分かり、対ドイツ参戦を決定する。チャーチルはベルギーに直接自らも入り指揮するが、失敗に終わり、イギリス軍の大隊2つが捕虜となってしまい、何の成果もあげられずに本国へ逃げ戻る。チャーチルはマスコミや保守党から激しい批判を受けることとなる。1914年10月には反ロシア親ドイツ的なオスマン帝国がドイツ側で参戦しており、1915年1月にロシア帝国はイギリス政府に対してトルコを圧迫して欲しいと要請する。このロシアからの要請を期にチャーチルも東方派になり、王立海軍をオスマン帝国のダーダネルス海峡に送り込むことを閣議で主張するようになる。閣議の結果、海軍だけでなく陸軍兵力をガリポリ半島(トルコ西部)から上陸する作戦も決定された。英仏艦隊でダーダネルス海峡沖に攻めよせ、トルコ軍要塞を砲撃で壊滅させる。しかし、ガリポリの戦い(第1次世界大戦で、1915年4月、イギリス・フランス連合軍がロシアと連絡を可能にするため、ダーダネルス海峡に面したガリポリに上陸したが、オスマン帝国軍に阻止された戦い)の失態によりチャーチル批判は最高潮に達する。
こうした中、戦時の政治危機を危惧した自由党と保守党が交渉した結果、保守党の議員達に目の敵にされているチャーチルを海軍大臣から外すことを条件として自由党と保守党が連立政権を樹立することで合意する。
行動力が凄まじいチャーチルは、閣僚職を辞職してまもなく1915年11月には西武戦線に従軍しようと、フランスへ向かう。総司令官は、チャーチルに陸軍少佐の階級と、第6大隊長の地位を与えた。また、なるべく早期に塹壕戦を終わらせようと考え、塹壕を突破出来る戦車の開発を急ぐべきだと主張していた。そして1916年、40歳で軍需大臣に就任する。1917年にはアメリカが連合国側で参戦する。アメリカは以前から金融や物資の面でイギリス、フランスを支援していたが、参戦以降支援がさらに増加したことにより軍需大臣となったチャーチルは全力で活用し、戦車の開発を急ぐ。このため、チャーチルは戦車の父と呼ばれるようになる。そして、1918年、第1次世界大戦が終戦となる。ソ連に対しては、イギリス、フランス、アメリカ、日本の連合国が干渉戦争を仕掛けて共産革命の阻止を図ろうとしていた。イギリスは、帝政派ロシア軍人からなる白軍を支援していた。当時のイギリスのロイド・ジョージ首相は反ソ連干渉戦争から撤退することを希望し、アメリカのウィルソン大統領とも協力して関係主要国およびロシア各勢力を招いた講和会議を提唱したが、ロシア軍(反共産主義)の反対で流れてしまう。イギリス国内でもチャーチルや保守党がソビエトとの妥協に反対し、干渉戦争の続行を主張していた。こうしたチャーチルの反共産主義の姿勢に労働者階級や労働党、動員解除を求める軍人達の反発がどんどん強まっていった。労働党はチャーチルがイギリス軍撤退の無期限延期と新たな兵士を送り込むことを独断でロシア軍(反共産主義)に約束したとしてチャーチルに逮捕を要求する決議さえ出そうとした。こうしてこの干渉戦争以降、チャーチルは保守党から好意的な目で見られるようになった。しかし、戦争に飽きた世論は政府の好戦的な態度を批判し、次の選挙でチャーチルが所属する自由党は惨敗し、チャーチルも落選する。ここからチャーチルは暫く選挙で落選を重ねる。

 

-チャーチル保守党再当選、対ドイツ強硬論主張
1924年、チャーチル50歳の時、労働党の議員提出の内閣不信任案が自由党の賛成を得て可決され、ボールドウィン(保守党党首)は辞職し、労働党のマクドナルドが大命を受け、史上初の労働党政権が誕生する。チャーチルは「保守党こそが反社会主義者の集合場所になるべきだと考えている」と主張して保守党に接近する。選挙でもチャーチルは激しい社会主義攻撃を展開し、そしてドイツとロシアへの敵意むき出しの演説をしてチャーチルは保守党員として当選する。そして、チャーチルは大蔵大臣の就任するが、すぐに労働党が第一党に躍進し大臣を罷免されてしまう。
1932年、58歳の時、ドイツではヒトラー率いるナチスが第一党となり勢力をどんどん伸張させていた。ナチ党とドイツ共産党以外の政党が力を失っていけば、かわって政権につくのは共産党であった。そのため、ヒトラーの再軍備計画を徹底的に抑えつけるより、ある程度の国力回復を許し対ソ連防波堤にするのが良いと考える対融和派が多かった。そうした中、チャーチルはこうした立場に立たず、対ドイツ強硬論者となった。ドイツに再軍備を許せばドイツは帝政時代並みの国力を備えようとするし、反ソ連防波堤のメリットより、大英帝国の世界支配体制をドイツが再び脅かすというリスクの方が大きいと考えたのである。1930年代にあえて保守党主流派と一線を課す対ドイツ強硬論に立つことでドイツ脅威論が盛り上がってきたところを保守党中枢に返り咲こうという政治的狙いがあったとされる。チャーチルはドイツの再軍備要求は断固拒否し、イギリスは軍備増強を行うべきであると主張した。
1937年、チャーチル61歳の時、イギリスのボールドウィン首相が引退し、チェンバレンが保守党党首・首相に就任する。チェンバレンは前首相のボールドウィンと同じく閣議の和を乱すチャーチルを入閣させる意思はなかった。そんな中、ヒトラーはとどまるところを知らず、1938年にオーストリア、チェコスロバキアのズデーテンを併合する。ミュンヘン会議でチェンバレンが可決したのを聞いたチャーチルは「我々は敗北した、これが大英帝国の終焉に繋がらなければよいが」と漏らしたとされている。

 

-第2次世界大戦、第1次チャーチル内閣発足
イギリス、フランスとソ連の挟撃の危機を回避したドイツ軍は1939年、ポーランドへの侵攻を開始する。そして、チェンバレンはドイツに宣戦布告することとなる。イギリスに引きずられてフランスも対ドイツとして参戦し、第2次世界大戦が開戦する。開戦したからにはチェンバレンも対ドイツ強硬派のチャーチルを登用しないわけにはいかず、チャーチルを海軍大臣に任命する。
海戦の状況は一進一退だったが、陸戦ではポーランドが開戦からわずか1か月でドイツとソ連の革命軍によって壊滅される。保守党であるチェンバレンは労働党との大連立による挙国一致内閣で政権強化する道を模索するようになる。しかし、労働党の議員達はチェンバレンよりチャーチルを首相とする大連立を希望する者が多く、世論もチャーチルの首相就任を支持する者が多かった。
1940年、66歳の時、バッキンガム宮殿で国王より組閣の大命を受けたチャーチルは、第一次チャーチル内閣を発足する。チャーチルは、ヒトラーと同じく演説がとても上手かった。フランスを陥落させるべくナチス・ドイツ軍がベルギーとオランダへ侵攻を開始し、西方電撃戦が始まる。そして、侵攻から5日足らずでパリが陥落する。一方、イギリスの海外派遣軍は英仏海峡に到達したナチス・ドイツ軍によってフランス北部のダンケルクに追い込まれた。チャーチルは彼らの全滅を覚悟したが、ヒトラーは何故かドイツ軍装甲部隊の指揮官達に追撃を許さなかったため、イギリスの海外派遣軍とフランスの軍部隊の一部である33万人もの人達を5日間に渡って行われたイギリス本土への撤退作戦に成功する。
1940年、夏のイギリスは破滅の一歩手前であった。西欧諸国や北欧諸国はほとんどがドイツに占領されるかその衛星国家になっていたのである。東欧もドイツとソ連に分割占領され、ドイツは日本やイタリアと三国軍事同盟を結んでいた。アメリカの参戦だけが、イギリスの唯一の希望であったが、アメリカ国民世論はモンロー主義が根強く、ルーズベルト大統領もチャーチルの誘いには簡単にはのってこなかったのである。そのため、イギリスは独力で守りを固め、ドイツ軍の攻撃を待つしかない状態であった。ヒトラーはフランスに勝利した後、イギリスに和平を提唱したもののチャーチルは強硬路線を曲げず拒絶した。そこでドイツ軍は、イギリスへの上陸作戦であるアシカ作戦の立案を開始する。イギリス軍機がこれを迎え撃つべく出撃し、イギリス本土上空での激闘に辛くも勝利してヒトラーはこの作戦を諦める。
1941年、ヒトラーはバルバロッサ作戦を発動し、東ヨーロッパのソ連占領地域に侵攻する。チャーチルは、その日のうちにソ連の最後指導者スターリンに無条件の協力を約束する電報を送る。チャーチルは秘書に「ヒトラーが地獄に攻め入れば、私は地獄の大王を支援する」と語ったという。ドイツもソ連もどちらも受け入れていないことを証明する発言である。同年、ルーズベルト大統領と会談し、大西洋憲章を締結する。内容としては、領土不拡大や民族自決を盛り込んでいた。しかし、イギリスとアメリカも一筋縄にはいかず、ルーズベルトが世界自由貿易を提案したのに対して、帝国内関税特恵制度を変更するつもりはないとチャーチルは拒絶する。チャーチルは、憲章締結結後も植民地の民族運動家に対する弾圧をしていった。領土不拡大についても、イギリス、アメリカ、ソ連の三国が領土分割を約束し合うこととなり完全に無視される。
1941年の日本のマレー作戦により、日本イギリスで開戦が起こり、チャーチルは日本に宣戦布告する。マレー作戦の次に真珠湾攻撃で日本アメリカの開戦が起こり、その報告を聞いたチャーチルは大喜びし、ルーズベルトとチャーチルの強い結びつきが出来る。日本はマレー作戦に勝利し、南下し、シンガポール沖でイギリスの戦艦が沈められる。さらに香港、シンガポールが陥落し、マレー半島全域の喪失とシンガポール陥落とそれに伴う多くの戦死者、捕虜を出したことで国会において野党の労働党からの厳しい追及を受ける。その後、北アフリカ戦線でドイツ軍に勝利したアメリカ、イギリス軍は、イタリア侵攻が可能となり、1943年シチリアへ上陸作戦を決行して成功し、連合国の激しい空襲でイタリア人の戦意は衰え、ストライキや暴動が多発し、ムッソリーニは失脚する。後任の首相バドリオは同年連合国と講和し、イタリアは戦争から脱落する。そして、1943年11月、エジプトのカイロでルーズベルト、蒋介石と会談を行い、対日問題について協議する。いわゆるカイロ会談を行った。ルーズベルトは蒋介石と仲が良く、以前から香港を日本から奪還したらイギリスではなく蒋介石に渡そうと目論んでいた。もちろんチャーチルはアメリカの考えには到底賛成できなかった。カイロ会談に続いて、イランのテヘランでルーズベルトとスターリン、チャーチルの初めての会談としてテヘラン会談を行う。この会議で1944年5月にもイギリス、アメリカ軍が北フランスと南フランスに上陸作戦を決行することと、ソ連軍が攻勢に出ることが約束された。1945年2月、ソ連領クリミア半島のヤルタでスターリン、ルーズベルト、チャーチルの三巨頭によるヤルタ会談が行われた。この会談でドイツを無条件降伏させ、その後、イギリスとアメリカとソ連で分割占領することが取り決められた。

1945年春にイギリス、アメリカ軍は西から(ノルマンディー上陸作戦)とソ連の赤軍は東からドイツ領へ侵攻を開始し、ヒトラーはベルリン内の総統地下壕で自殺する。

 

-戦争終結、大英帝国衰退、チャーチル永眠
こうしてヨーロッパ戦争は終結する。終結したが、ビルマにおける日本軍との戦いは終わりに近づいていたものの、未だにマレー半島やシンガポール、香港などの旧植民地は日本軍の占領下にあった。これらのアジアの植民地におけるイギリスの権威は完全に失墜していて、イギリスには大英帝国を維持する力もなくなっており、この後10年程度の間に、インドやセイロン、マレー半島やパレスチナ、スーダンなど帝国の多くの地域が独立することとなる。チャーチルは勇ましい言葉で自国の力を誇示しながら、自身も大戦中からイギリスの没落を肌で感じ取っていたのである。1945年、庶民院を解散し、選挙が行われるがチャーチル率いる保守党は労働党に惨敗する。国民は戦いにもう飽きており、社会保障を重要視したのである。チャーチルは既に70歳になっていたが、引退する気はなく、引き続き保守党党首にとどまった。反共闘意欲がますます盛んとなったチャーチルは1946年、アメリカで「鉄のカーテン」演説を行った。これに対し、ソ連の最高指導者であるスターリンはチャーチルを「戦争屋」「反ソ戦争挑発者」「ヒトラーのドイツ民族優越論に匹敵する英語圏国民優越論者」と批判した。1964年、90歳の時にチャーチルは元気な姿を群衆に披露したが、これが公衆に見せた最期の姿となる。1965年、91歳の時、脳卒中で永眠する。

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