【世界の独裁者④】ムッソリーニ〜ヒトラーが師と仰いだイタリアの独裁者〜歴史

教養/豆知識

ムッソリーニという名前を聞いたことがある人はあまりいないかもしれません。しかし、ヒトラーを聞いたことがある人は多くいらっしゃるかと思います。そう、このムッソリーニはあの有名なドイツの独裁者ヒトラーが師と仰いだイタリアの独裁者になります。この人物が処刑された2日後にヒトラーも自殺しており、まさに運命共同体の存在なのです。
「ファシズム(日本語で結束主義と呼ばれ、独裁権力のもとで議会制民主主義が否定され、強力な軍事警察力によって国民の権利や自由が抑圧される国家体制のこと)」の生みの親であり、イタリア社会党で活躍した後に新たな政治思想ファシズムを独自に構築し、国家ファシスト党による一党独裁制を確立し、悲惨な最期を遂げた人物になります。
今回は、そんなムッソリーニについて簡単にご紹介いたします。

 

●プロフィール
名前 ベニート・アミルカレ・アンドレーア・ムッソリーニ
出生 イタリア北部プレダッピオ市ドヴィア地区
出世 1883-1945(61歳没)
肩書 ファシズム指導者、全国ファシスト党最高指導者
父の影響で社会主義思想となり、そしてファシズム(全体主義)に変わっていった。

 

●ムッソリーニについてざっくり紹介
子供の頃のムッソリーニは、喧嘩っ早い性格で、また強いので村のリーダー的な存在であった。しかし、性格は寡黙で群れることを嫌い1人でいることが多かったと言われている。成績も非常に優秀で寄宿学校を優秀な成績で卒業し、師範学校は首席で卒業した。非常に読書家で、哲学、政治学、歴史学の本を中心に学んでいた。
大人になってからの性格は粗野で行動的であった反面、繊細な神経で人を信用せず、心を許す友人を作らなかった。芸術に対しての造詣が深く、多くの美術品を愛好していたと伝えられている。
そして、ムッソリーニはヒトラーと同様に演説が得意であった。演説は知的で優雅であり、わかりやすかったという。ヒトラーの感情が高ぶると激烈な弁を振るうものとは対称的にさわやかな演説だと言われている。また、語学に堪能であり、イタリア語以外に英語、フランス語、ドイツ語の4ヶ国語を自在に話せた。最期は共産主義を掲げるパルチザンにより、銃殺される。
パルチザンとは、侵略に抵抗していた非正規軍である。第二次世界大戦において敗戦が濃厚になるとムッソリーニは失脚し、国内もパルチザンによるイタリア解放運動が活発になっていった。
1945年、61歳の時にムッソリーニはスイスへ逃亡しようとするが、パルチザンに捕らえられ正式な裁判を待たず愛人とともに銃殺される。処刑後はミラノに遺体は搬送され、市民に晒された後に逆さ吊りにされた。まさに、暗殺疑惑のスターリン、自殺のヒトラー、銃殺逆さ吊りのムッソリーニである。

●ムッソリーニの政策
1920年、37歳の時からムッソリーニは「愛国心、戦争礼賛、偉大な国家イタリア」といったイタリア人の情緒的な愛国心を強調し、反議会主義、反社会主義を唱えており、1926年、43歳の時に独裁政権を樹立する。
独裁政権までの経緯は、1921年、38歳の時にファシスト運動を政党化し、「全国ファシスト党」を結成し最高指導者となった。ムッソリーニは、ファシズムと言われる思想を築き上げた張本人である。ファシズムとは、日本語で”結束主義”と言い、要するに大衆動員を積極的に利用し、市民的自由や人権を無視する国家主義を掲げ、反対派を弾圧する思想である。
1922年、39歳の時、黒シャツに身を包んだファシスト党員4万人でローマ進軍を行うことにより政権獲得に成功する。ローマ進軍とは、ムッソリーニ率いるファシスト党の党員たちが武装し、ローマに向かって進軍する事件のことであり、ムッソリーニは政府に圧力をかけ、政権を獲得しようと考えた。政府はこれを鎮圧しようとしたが、国王がそれを許さず、ムッソリーニが内閣を組織することを承認した。こうしてムッソリーニは国王の支持を得て首相に就任することになる。
当初ファシスト党は、憲法にのっとった連立内閣の体を保っていたが、1924年にファシスト党に反対する議員を暗殺する事件が発生する。この時に過激派のファシスト党員を庇い、独裁宣言を行うこととなる。これにより、1925年にイタリアの議会制度が実質的に消滅する。1926年までには反対する議員を追い込んでいき、全ての野党が廃止され、いかなる野党を創設することも禁止となり、独裁政権となる。
ムッソリーニは、アルバニアを保護国化した。保護国というのは、実質植民地と同じであり、海外植民地を獲得したムッソリーニは、さらに権威を高めていく。
1929年、46歳の時、ムッソリーニはラテラン条約を締結し、ローマ教皇庁と和解する。
19世紀のイタリア統一運動の中で、ローマ教皇領はイタリア軍によって併合された。以来、ローマ教皇庁とイタリア政府は断絶状態にあったが、ラテラン条約によって両者が和解することになったのである。ラテラン条約により、イタリア政府はローマ市内の一部地域を、ローマ教皇が統治するバチカン市国として独立させることを承認する。バチカン市国の独立を認められた教皇側は、代わりにムッソリーニ政府を承認した。イタリア国民の多くはキリスト教徒であり、ローマ教皇から承認されたということで、ムッソリーニはさらにイタリア国民の支持を集めることになる。こうしてムッソリーニは、巧みな国内政策と外交で国民の支持を確固たるものにしていった。
第二次世界大戦では当初中立の立場を取っていたが、ドイツが優勢になると漁夫の利を狙い、フランスとイギリスに宣戦布告して第二次世界大戦に参戦する。そして、1940年には日本とドイツと日独伊同盟を結ぶ。しかし、北アフリカ戦線でイタリア軍は次々と敗退し、国内でムッソリーニへの反発が強まっていった。1943年に連合軍がローマまで迫り、ファシズム代表議会はムッソリーニを政権から排除することを決議し、国王も同意しムッソリーニは逮捕・幽閉されてしまう。その後ドイツに救出され、「イタリア社会共和国」を作りイタリア王国と対抗した。

●反ユダヤ主義には否定的
ファシスト党はドイツと手を組んだことは事実なんだが、実は反ユダヤ主義には否定的だった。ユダヤ人に好意的だったわけではないが、ドイツが人種政策を取り、ユダヤ人を迫害するようになると距離を取り思想の違いを示している。ムッソリーニは、「彼らは古代ローマの頃からこの土地にいる」として、ユダヤ系イタリア人を庇う発言もしている。イタリアが治安維持した旧ユーゴスラビア地域でも、軍に対して反ユダヤ主義から守るよう命令しており、これに対してドイツはイタリアを当時非常に非難したとされている。

 

●ムッソリーニの生涯
1883年、イタリア王国プレダッピオ市で、鍛治師の父と教師の母の間の長男として誕生する。父が社会主義的思想の人物だったために、メキシコ独立の英雄べニート・フアレスに因んでベニート、親しい国際主義的革命家の人物からアミルカレ、イタリア社会党の創始者からアンドーレアという父が尊敬している人の名前がつけられた。ムッソリーニは、父から社会主義と愛国主義を叩き込まれながら成長していく。そして母が熱心なクリスチャンだったために、ファエンツァにある修道会系の寄宿学校に通う。しかし、無心論者であるムッソリーニは学校に馴染めずに学校から脱走したり、上級生をナイフで刺したりの問題を起こし、退学処分を受けている。ムッソリーニは、5年生で宗教色のない寄宿学校に転校すると以前とは逆に優秀な成績で卒業する。そして、周囲の勧めで下層階級でも栄達することが出来る教員資格を取るべく師範学校の予備課程に入学する。
1901年、18歳の時、ムッソリーニは師範学校を首席で卒業しグァルティエリという町で教職となる。しかし、暫くすると職を辞めてスイスに放浪の旅に出る。この一連のはっきりした理由は分かっていないが、田舎が嫌だった、見聞を広げるためだったなどと憶測されている。
スイスでは、土木工事をしたりしてその日暮らしをして生活し、この時にマルクス・レーニン主義をマスターし、ドイツ語やフランス語をマスターした。しかし、政治活動をしていたためにスイス国からマークされ追放されることとなる。ムッソリーニは、イタリアに戻るとすぐに軍隊に志願し、王国陸軍の第10狙撃兵連隊に配属された。

1906年、23歳の時、兵役を終えオーストリアの国境近くのトルメッツォという町で教職に復帰し、徐々に政治活動に没頭することになる。ムッソリーニはイタリア社会党で頭角を現し、29歳で党の指導者として演説するようになっていき、党最大の機関紙アヴァンティの編集長となった。編集長としての腕もかなりのもので、2年足らずで発行部数を2万部から10万部に押し上げたとされている。
1914年、31歳の時、第一次世界大戦が始まるとイタリア社会党は戦争反対の立場をとっていたが、ムッソリーニは機関紙アヴァンティで参戦論を展開する。理由は、封建的(封建時代のように、上下関係を重んじて、個人の自由・権利を軽んずるさま)なオーストリアのハプスブルグ家などを打倒することで社会主義を前進出来るという考えからであった。しかし、党内委員会の否決により機関紙の編集長を辞し党からも除籍処分となってしまう。その後は、戦争に従軍し、前線で戦い、1917年、34歳の時、戦争で重傷を負い片足に麻痺が残ったため、その後は復帰せずミラノに療養している間も執筆活動をする。
1919年、36歳の時、自分と同じ服役軍人や参戦論者だった人達で「イタリア戦闘者ファッシ」という政党を設立し、この時にファシスト・マニフェストという本も出版する。ムッソリーニの主張は、地中海沿岸部の統合を目指すことであった。さらにこの時に古代ローマ帝国を引き合いに出し、帝国を再統合することも言っている。


1921年、38歳の時に「国家ファシスト党」へと変貌し、私兵集団は黒シャツ隊と呼ばれるようになった。1922年、ローマ進軍と呼ばれるクーデターを起こし国王はムッソリーニを組閣する勅令を出したことでファシスト党の政権が樹立する。そして1925年、ファシスト化を宣言する。
1935年、52歳の時、エチオピア帝国に宣戦布告し第二次エチオピア戦争が始まる。ムッソリーニは、エチオピアの植民地支配化を目指していたが、エチオピアは、国際連盟加盟国だったため、国際連盟から経済制裁が決議される。当初、ムッソリーニは決議する前にエチオピアを併合する予定だったが、イタリア軍が思ったより弱かったため、苦戦を強いられるようになり経済制裁の決議となってしまう。
1936年、53歳の時、エチオピアを併合し、ローマ帝国以来だったイタリア帝国の復活を宣言したが、代償も大きく、エチオピア併合は世界中から非難される。そして、1937年に国際連盟を脱退する。これにより、世界に危険なファシズム国家と印象づけることとなってしまう。
1939年、56歳の時、ドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が開戦し、当初イタリアは中立の立場をとっていた。理由として、工業国であるドイツと農業国であるイタリアでは軍事力に差があり、イタリアの経済と軍備が深刻に衰退していることを懸念したからである。しかし、ドイツの快進撃に、当初反対していた国王達も参戦派に傾いていった。独ソ戦は始まらないだろうと予想したムッソリーニは、イギリスの降伏による戦争の早期終戦を予想し、1940年にフランスとイギリスに宣戦布告し、日独伊三国同盟を結ぶ。この同盟を結んだことが原因で当初中立だったソ連はドイツと、日本はアメリカと戦争を始めてしまうこととなり、米ソを敵に回すという最悪の事態となる。


1943年、60歳の時、イタリアは、結局何も貢献できず、敵の連合軍はローマまで迫っており、ファシズム代表議会はムッソリーニの排除を決め、国王の命令により拘束し幽閉されるが、ドイツ軍が幽閉先に攻め、ムッソリーニを救出する。その後、貴族と王室を廃する共和制を掲げてファシズムを築くという理念で「共和ファシスト党」をミラノで再結成し、北部イタリアにイタリア社会共和国を建国したことでムッソリーニはヒトラーに押される形で首相となった。これによりイタリアは南北に別れ内戦状態になる。反ムッソリーニのパルチザンの動きも活発となり、ミラノをあきらめ、スイスに向かって移動している時に愛人とともにパルチザンに捕えられる。そして、パルチザンは略式裁判で即時処刑を決定し、処刑場であるメッツェグラ市でムッソリーニは銃殺され、遺体は翌日ミラノで逆さ吊りにされ晒しものにされた。処刑はヒトラーが自殺する2日前のことであり、まさに運命共同体であったと言える。

 

●感想
強硬なやり方で国内の反対派を排除していき、トップに登りつめた独裁者ムッソリーニ。有名なヒトラーとの共通点として、心から信頼できる友人や人間がおらず、また演説がとても上手いという特徴があるのだなと感じました。中立の立場をとっていながらも、ドイツが優勢になるとイギリス、フランスに進撃するあたり非常にしたたさがありますが、これにより米ソを巻き込んだ世界的な規模での大戦となってしまい多くの犠牲者を出してしまったため、歴史を振り返ると、改めてこの行為に怒りが湧いてきます。ラテラン条約(イタリア政府がローマ市内の一部地域をローマ教皇が統治するバチカン市国として独立させることを承認し、その代わりに教皇側はムッソリーニ政府を承認したというもの)のようにこうした忖度に近い外交を行うことは現在でも大いにあると思いますが、今一度忖度ではない外交や交渉が必要であり、日本でもホットワードである「忖度」の文化は非常に危険だと思います。
ファシズムという危険な思想(独裁権力のもとで議会制民主主義が否定され、強力な軍事警察力によって国民の権利や自由が抑圧される国家体制)を作り、ナチスドイツや日本の軍国主義を生み出し、また第二次世界大戦の要因となってしまったことは許されることではありません。
しかしながら、どの思想が一番良くて一番正しいというものはどこにもなく、常にそれは民主主義国家で生きる我々国民全員が考え続けなければならない課題なのだと感じました。

 

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