【世界の独裁者②】ポル・ポト〜国民の1/3を殺した姿なき独裁者〜歴史

教養/豆知識

世界遺産でお馴染みのアンコール・ワットがあるカンボジア。この国にかつて世界中を震撼させた独裁者がいました。その名はポル・ポト。
この記事は、かつての独裁者による出来事を風化せず、私自身しっかり胸に刻もうという思いで書きました。
よろしければ是非ご覧下さい。
参考はNHK「ザ・プロファイラー」になります。

 

●プロフィール
ポル・ポト
本名は「サロット・サル」
生誕 1925-1998
出世 カンボジア王国、コンポントム州、プレク・スバウヴ
彼は、嘘のプロフィールとして名前や名前以外も詐称した。

 

●ポルポトがやったこと
・貨幣の廃止
・国民総農家
・家族の解体
・文字を読めたら処刑
・学校の廃止
・こども医者
大人の医者は全員処刑したため、ココナツジュースを点滴がわりにした。

 

●ポルポトの生涯
・サロットサルの誕生
当時のカンボジアは国民の8割が農民で貧しい暮らしをしていた。一方、サロットサルの家は豊かな農家であり、幼少期は何不自由ない生活を送っていた。
9歳の時、首都プノンペンに移住する。そして名門小学校に入学した。熱中したのはバイオリン。そして順当に名門高校に入学となる。しかし、ここでサルは大きな挫折を味わう。勉強についていけなくなり、大学受験に失敗してしまう。技術学校に進むことになり大きな劣等感を持つこととなる。

・フランスへの留学
24歳の時、専門学校で優秀な成績を残したため、フランスのパリ技術専門学校に通うこととなる。ここでエリート留学生の話についていけず、またしても劣等感を味わう。勉強会のリーダーは学歴で選ばれていたという。また、ここで当時フランスの若者に人気のあった共産主義思想に出会う。当時カンボジアはフランスの植民地であった。国民は、フランスと国王により2重の支配を受けていた。革命を起こせば、国王を倒し、フランスから独立出来ると考え始めた。

・革命活動
28歳の時にカンボジアに帰国し、革命活動に参加する。この年、1953年にカンボジアはフランスから独立する。全権を握ったシハヌーク国王は、革命活動家を徹底的に排除していった。ついにはリーダーも処刑されてしまうこととなる。こうしてサロットサルはパリでの経験を買われて共産主義政党のリーダーに君臨することとなる。しかし、真っ先に国王から狙われる立場となった。サルはプノンペンを脱出し、ベトナムとの国境に4年間潜伏したのち、北東部のベトナムとの国境沿いに拠点を作り本格的な武力闘争を開始した。ここで出会ったのは、貧しい農民。平等な社会である。ここで、貧しい農民の上に立ち平等な社会を目指そうと固く決意することになる。金持ちやインテリは革命の敵だという考えが構築された。エリートは激しい憎悪の対象となった。こうして自身の名前を素朴で質素な農民にありがちな「ポル・ポト」と名乗ることになる。

・クメール・ルージュ
クメール・ルージュというゲリラ組織を作り、北東部の拠点からまずは土地改革制度として、全ての農民から農地を取り上げ平等に再分配した。貧しい農民の支持を集めて拡大していった。そして首都プノンペンで首相ロン・ノルによるクーデターが起こりシハヌーク国王を追放し新政府を樹立した。理由はシハヌークが北ベトナムや中国などの共産主義勢力と接近していったからである。新政府は共産主義を敵視するアメリカと手を組むことになった。そして、アメリカは共産主義のクメール・ルージュ支配地域へ空爆したのである。このロン・ノル新政府とポルポト率いるクメールルージュとの内戦で30万人が死んだ。そこでポルポトはかつて中国に亡命しているかつて敵であったシハヌークと手を結ぼうとする。ポルポトは、別の幹部を全面に押し出し自分の存在を隠すことでシハヌーク元国王と協力関係を築こうとした。こうして力をつけたクメールルージュは支配地域を拡大し、首都プノンペンを取り囲むほど大きな勢力となった。

・プノンペン攻撃、強制移住
1975年クメールルージュが首都プノンペンを総攻撃する。同年プノンペンを制圧する。そして、ポルポトは陰から兵士達にプノンペン市民を街から追い出すよう支持した。混乱し動けなくなったものは、射殺された。そして200万人いた住人は農村へ散り散りばらばらに移住させられた。移動中歩けなくなった者の中には射殺された者もおり移動で2万人が死亡したといわれている。「姿なき独裁者」の幕はここから始まる。
プノンペンから移住させられた人は、私有財産や貨幣も没収され、そして農機具なしで働かされた。元々農村にいて革命に協力した人物は旧人民、都市から移住した人物は新人民として旧人民から教育、指導され絶対服従とされ過酷な労働を強いられた。
一方、プノンペンを制圧した後、シハヌーク元国王はカンボジアに帰国し、表向きは元の地位に返り咲いたかに見えたはずだったが、実態は何ら権限を与えられず、クメールルージュがお膳立てした地方視察以外はプノンペンの王宮に幽閉同然の身となった。

・子どもの強制労働、密告社会
学歴がある大人は処刑され、洗脳出来るこども達を工場で働かせた。ポルポトは、組織として何段階もの階層を敷くことで、上から降りてきた命令を理由も目的もわからないまま絶対服従させるシステムを作る。直属の上司をオンカーとしその上にまたオンカーがいてそのまた上にという何階層ものシステムであった。こうして奴隷として働かせて考える気力を奪い去った。農機具を使わない農作業、無計画なやり方により収穫量が伸びず、食料不足や餓死者が続出した。首都プノンペンにいたポルポトは実態を知り、「責任を負わせる人物がいる。」と発言した。
革命の邪魔をする裏切り者の密告が奨励され、子どもが実の親を密告するという地獄が始まった。そして密告された人物は全員射殺された。ポルポト政権3年8カ月で死者は推定100万人〜200万人という悲劇となった。

・ポルポト政権崩壊
ヘンサムリンという人物が反旗を翻しクーデターを起こす。プノンペンはわずか2週間で陥落する。ポルポト政権は3年8カ月で崩壊した。しかし、ポルポトは今度はタイ国境の密林に潜伏し、武力闘争を図る。新政権は共産主義国、ポルポトは資本主義国がそれぞれバックについた。もはや、ポルポトの思想に一貫性はなく資本主義国から支援を受けていたのである。ここから20年にも及ぶ泥沼の内戦が発生する。この時に双方が埋めた地雷600万個は今でも多くが埋まったままであり、カンボジア人を苦しめている。

・ポルポト死亡
1998年ポルポトは最後まで自分の罪を認めることなく73歳で死去する。
亡くなる1年前の海外メディアの取材で
私は国民を殺すために革命運動に身を投じたのではない。私の良心に曇りはない。闘争の中では悪いことも起こる。」とコメントした。
内戦は1999年に終結した。
ポルポトの配下にいた最高幹部2人は2018年終身刑が言い渡された。

 

●感想
ポルポト政権崩壊後のカンボジアの人口の85%が14歳以下になったと言われています。食料不足や餓死者が多発した時の発言「責任を負わせる人物がいる。」これは明らかに自分自身ではなかったのではないでしょうか。
独裁国家の特徴として国民を弾圧し、やがて密告社会になっていき、国民の考える気力を喪失させていく構図はスターリン時のソビエト連邦と全く同じだと思いました。ポルポトは、姿なき独裁者として名声や名誉はいらないが、自分の追い求める理想に関して、ある意味では自己実現の欲求を満たすためにはどんな手段でも使ってやろうという思想を抱いており他におけるどんな独裁者よりも厄介で陰湿であり救いようがない人物だと感じました。
今から20数年前まで生きていたポルポト。本当についこの間まで、この人物が生きていたという現実を改めて現代社会に生きる我々は考えなければならないでしょう。

 

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