【喜劇王チャップリン 】20世紀最も愛されたコメディアンの人生とは!?

教養/豆知識

チャップリンという名前を聞いたことがないという人はおそらくいないのではないでしょうか?世界三大喜劇王(チャールズ・チャップリン、バスター・キートン、ハロルド・ロイド)の1人であり、20世紀を代表するコメディアンになります。多くの方は、山高帽に窮屈な上着、だぶだぶのズボンにドタ靴、ちょび髭にステッキという格好のイメージが非常に強いと思います。
今回はそんなチャールズ・チャップリンについてご紹介したいと思います!!
(チャップリンの名言集についてはこちらをご確認下さい!)

 

●プロフィール
名前 サー・チャールズ・スペンサー・チャップリン
出身 イギリス ロンドン
出世 1889-1977(88歳没)
俳優、映画監督、脚本家、作曲家
80作品以上の映画に主演・出演そして監督を行った。映画の内容の多くは笑いを追求したコメディ映画だったが、その中には強い社会風刺も含まれていた。激動の時代の中で、愛や平和といったメッセージを映画を通じて表現した人物である。

 

●生涯
1889年、イギリスのロンドンにてチャップリンは誕生する。父はミュージックホールの歌手で母は踊り子兼歌手という音楽一家に生まれる。
1890年、チャップリンが1歳の頃、イギリスは恐慌に見舞われ一家の収入は激減した。この恐慌の影響により、仕事がなくなってしまった父は自暴自棄になり、アルコール依存症になってしまい離婚してしまう。チャップリンの試練は幼少期から続くことになる。離婚後、母が異父兄であるシドニーとチャップリンを引き取りにきて女手一つで2人を育てることとなる。母は舞台歌手と踊りで懸命に働き、チャップリンはこうした母の芸を舞台袖で見て人を楽しませる素晴らしさを学んだ。チャップリンは、母の仕事が終わるまで周囲の大人を笑わせていた。
1894年、5歳の頃、母は心労がたたり、芸の本番中に声が出なくなってしまう。そこで舞台の支配人はチャップリンが幼いながらも芸を心得ていることを知っていたので、急遽舞台に立たせることにした。突然の出来事だったが、チャップリンは歌を歌い、大喝采を浴び初舞台は大成功となった。しかし、母の声は戻らず仕事を辞めてしまうこととなる。こうして母の収入がなくなったため、生活は困窮の一途を辿り、母は精神を病んでしまうことになる。
1896年、チャップリンが7歳の頃、母は施設に入れられることとなる。そのため、チャップリンとシドニーは各地の孤児院を転々とし、お金を稼ぐためにシドニーと様々な職を転々とすることになり、時には盗みを働くなどそんな生活が数年続いた。こうした過酷な少年時代をチャップリンは後に「私は貧乏をいいものだとも、人間を向上させるものだとも考えたことはない。貧乏が私に教えたものは、なんでも物をひねくれて考えること。そしてまた、金持ちや上流階級の美徳や長所に対してのひどいかいかぶりという、ただそれだけだった」と語っている。こうした貧困への恐怖は後年まで付き纏うことになる。

1899年、10歳の頃、チャップリンに演劇への情熱が湧き上がってくる。そこで働きながら演劇の勉強をし始める。チャップリンはめきめきと芸を吸収し、タップダンスやパントマイムを習得していった。チャップリンはその後も様々な劇団を渡り歩き芸を磨いていく。
1908年、19歳の頃、転機が訪れ名門劇団の若手看板俳優に選ばれる。それから数年の間にパリ、カナダ、アメリカでの巡業を成功させ、徐々に名前が知れ渡ることになる。
1913年、24歳の頃、2度目のアメリカ巡業の際に映画プロデューサーの目に留まりスカウトされる。この時、当時のレートで週約30万円というビッグチャンスであった。この時代は映画の黎明期で階級に関わらず世界的スターになれる可能性があったがチャップリンは一度この契約を拒否する。契約書には「契約は、いずれか当事者の通知により解約出来る」という項目があり、万が一、突然首になった時にまた貧乏生活に戻ることを恐れたのである。そして協議の結果、この項目は削除され契約を終え、25歳の時に『成功争ひ』で映画デビューを果たす。
その後、2作目の『ヴェニスの子供自動車競争』の出演も決定する。出演にあたって面白い格好をするようにプロデューサーに要求されたチャップリンは、山高帽に窮屈な上着、だぶだぶのズボンにドタ靴、ちょび髭にステッキという扮装をし、現在のイメージを確立させた。

                                            チャップリンと言えばこのイメージ

この扮装についてチャップリンは、
「小さな口髭は自分の虚栄心、そして不格好で窮屈な上着とダブダブのズボンは人間が持つ愚かさや不器用さや物質的な貧しさにありながらも品位を維持しようとする人間の必死のプライド、そして大きなドタ靴は貧困に喘いだ幼少の頃の忘れえぬ思い出である。それが僕にひらめいた個性である。」と語っている。
この2作目の作品は大ヒットし、瞬く間にチャップリンの噂はハリウッドまで響くことになる。あっと言う間に引っ張りだこになり、この年だけで35作ほどの作品に出演する。
1916年、27歳の時には週給1万ドル、ボーナス15万ドル、年間67万ドルという破格の契約金を得る。しかし、生活は慎ましく小さなホテルに住み、使い古した服を着て生活していた。それからも名作を撮り続け、異父兄シドニーをマネージャーにし、監督としても活躍していく。

1918年、29歳の時には自身の撮影スタジオをアメリカに設立し、年間100万ドルの契約となり、監督、主演、脚本、編集、作曲までをこなし、作品へのこだわりは強くなっていく。チャップリンは完璧主義の傾向があり、同じシーンを何度も撮影したり、ワンカットに300日以上かけたり、3分のシーンに300回以上リテイクをかけたりした。
コメディでありながら庶民目線を重視し、孤独や愛や幸福といったヒューマンドラマに力を入れたチャップリンは、同年29歳の時に16歳の新人女優ハリスと結婚する。その後、すぐに離婚し、チャップリンは3度再婚する。チャップリンは人生で4人の妻と11人の子供を授かる。

                                                1920年、31歳のチャップリン

1921年、32歳の時、映画『キッド』が全米で大ヒット。
1925年、36歳の時には映画『黄金狂時代』のヒットで世界的スターとなり、その後もヒット作を連発する。
1931年、42歳の時、チャップリンは突然世界旅行に出る。ロンドンではチャーチル、ベルリンではアインシュタインやマレーネ・ディートリヒ、インドではガンジーといった世界の様々な著名人と交流をし、意見交換した。チャップリンは、親日家でもあり日本文化を愛し天麩羅を食べに訪日するほどでもあった。
平和と人情に重きを置いていたチャップリンは大作風刺映画である『独裁者』の制作に取り組むことになる。『独裁者』は当時のドイツの指導者であるヒトラー(オーストリア併合、ポーランド侵攻、ユダヤ人虐殺を行なった人物)の独裁政治を批判した作品で、近隣諸国に対する軍事侵略を進めるヒトラームッソリーニを代表するファシズムに対して非常に大胆に避難と風刺をしつつ、ヨーロッパにおけるユダヤ人の苦況をコミカルながらも生々しく描いている作品である。しかしながら、当時アメリカは第二次世界大戦にまだ参加しておらずアメリカ国内にはヒトラーを支持する層もいたため世相からの風当たりは芳しくなく、制作中でも殺害予告や公開中止を求める声が後を絶たなかった。
そんな状態であったが、1940年、51歳の時公開されると『独裁者』は空前の大ヒットとなり自身の興行的に最も成功した作品となる。特に話題となったシーンは、映画史上最高の演説と呼ばれ今なお語り継がれている終盤6分にわたる演説シーンである。

6分間の演説シーン『独裁者』

great dictator speech charlie chaplin
チャップリン 独裁者 ラストの演説 the great dictator speech charlie chaplin

 

この内容からチャップリンは、人は利己的な感情を乗り越え人類が手を取り合い、自立出来ると信じていることが分かる。また、最後の母へのメッセージとも思えるセリフは貧困にあえいだ幼少時代に必死に我が子を守ろうとしてくれた母への感謝を表していると読み取れる。
『独裁者』は興行的に成功したもののそのメッセージ性の強さから世界情勢的に国内からも危険視される。そして、第二次世界大戦は終結し、冷戦時代に突入する。アメリカ政府による国内の共産党員およびその同調者や支持者を、公職を代表とする職などから追放する赤狩りが始まり、チャップリンのこれまでの作品が共産主義に理解を示し、反対せずもしくは協力的である、いわゆる容共的だと非難され始める。
そんな逆風の中、1947年、58歳の時、自身の最高傑作とする『殺人狂時代』が公開される。内容はシリアス色を強く出し差別的な世相を痛烈に皮肉ったものであった。この作品により、共産主義者だとバッシングが最高潮に達し、政府からも召喚命令を受けることになり、この頃からスキャンダルや家庭問題が多くなり、メディアからも印象操作される時期となる。
1952年、63歳の時、ロンドンへ『ライム・ライト』のプレミアのために向かう途中、アメリカ司法長官から事実上の国外追放を叩きつけられる。チャップリンを支持する一般国民は激しく抗議したがついにアメリカに戻ることは出来なくなった。
アメリカを去ったチャップリンは家族とともにスイスに移り住み、映画出演はめっきり少なくなったが、平和への意志は強くアメリカでは作れなかったメッセージ性の強い作品を撮り続ける。こうして時は経ち、世界情勢も落ち着き始めチャップリンのこれまでの作品が再評価されることになっていく。世界の名士として、ヨーロッパのエラスムス賞、フランス政府よりジオンヌール勲章、パリ市議会からは名誉市民の称号を与えられ、ついに、アメリカハリウッドが正式にアカデミー賞名誉賞を与える。これにはこれまでの功績を称えるのと同時に謝罪の意味もあったとされている。
1972年、83歳となったチャップリンは20年ぶりにアメリカの地を踏むことになる。アカデミー賞の会場では割れんばかりの歓声とスタンディングオベーションとなり、チャップリンは涙を浮かべただ「ありがとう」と感謝の言葉を残した。チャップリンのメッセージが長い時を経て、政府や大衆に認められたのである。
2年後の1974年、85歳の時、英国のエリザベス女王からナイトの称号を贈られ、「サー・チャールズ」となる。
1977年、88歳の時、クリスマスの朝家族に見守られながら静かに息を引き取る。

●感想
チョビ髭にダボダボなズボンは思いつきでテキトーな格好な訳ではなく、信念と主張が一貫したしっかりと考えられた扮装だったというのは初めて知りました。チャップリンは芸や笑いを武器に階級や軍国主義、宗教、差別、貧富の差といった様々なものと戦い続けました。何より当時のヒトラーへのアンチテーゼとして映画『独裁者』でヒトラーの演説を見事に特徴を捉え非常に滑稽に演じました。これにより、ヒトラーは得意としていた演説を少しはばかるようになったと言います。チャップリンが滑稽にヒトラーの演説を演じたことで人々に強烈な印象を植え付けさせたのです。チャップリンとヒトラーがたった4日違いの誕生日だったというのも何か運命的なものを感じずにはいられません。

 

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