【キングダム】初の中国統一を果たした人物「秦の始皇帝」とは!?~嬴政~

教養/豆知識

漫画やアニメ「キングダム」でおなじみ、実写化では吉沢亮さんが演じられた嬴政、後の秦の始皇帝は初めて中国を統一した皇帝になります。そんな秦の始皇帝である嬴政は7つの国に分かれ争いあっていた中国の戦国時代で最強の国だった秦のトップで秦王として初めて皇帝を称した人物です。
今回はそんな秦の始皇帝について改めてご紹介したいと思います!!
また、コロナ禍で休止していたアニメが2021/4/4から再開しましたので興味がある方は是非ご覧ください!

 

●プロフィール
名前 嬴政(秦の始皇帝)
出身 趙
出世 紀元前259年-紀元前210年
見た目は「蜂のように鋭く高い鼻、吊り上がった切れ長の目、鷹や鷲のように突き出た胸、ヤマイヌのような声」とされているが、実際はただの太ったおじさんだったともいわれている。
↓始皇帝の像

 

●生涯
-誕生、天下統一までの道
始皇帝が生まれたときは秦、楚、斉、燕、趙、魏、韓の7国、通称戦国の七雄が戦っている中、趙に住んでいた子楚がいた。この人物は後に30代秦王になる人物である。そこで呂不韋という大商人が子楚の才能に目を付けできるだけ接近する。子楚は呂不韋の愛人に一目惚れして愛人を頂けるように呂不韋に懇願する。呂不韋は、なかなか悩むが後に自分のためになると考え、愛人を子楚に渡してしまう。その子楚と愛人との子供が嬴政、後の秦の始皇帝である。嬴政は実は子楚の子供ではなく呂不韋の子供だと言われているがそういう記述をしているのは史記しかないため疑わしいとされている。
こうして嬴政が誕生するが、生まれた頃には子楚が秦王になり、呂不韋はいい地位につかされた。しかし、子楚は4年目で死んでしまう。そして子供である嬴政がトップになるわけだが、当時、嬴政は13歳だったので政治はかわりに母親である太后と呂不韋が行うこととなる。しかし、太后と呂不韋は肉体関係を持ち続けていた。それが嬴政に知られるとまずいので呂不韋は「別の男」を紹介する。そして太后はその男の虜になり2人の子供を産んでしまう。太后はそんな淫らな姿を見せたことが原因で人前に出られなくなり政治は代わりに「別の男」がすることになり、呂不韋以上の力を持つようになる。後にこの「別の男」は嬴政に対して謀反を起こしたりしており、嬴政に負けて処刑されている。
その後、嬴政は他の6国を滅ぼしにかかるのである。この時、嬴政22歳である。そして、まず自分の生まれ育った趙を倒し戦勝式を行う。その際に幼少期自分にひどいことをした人物を全員埋めていったそうである。こうして嬴政は次々と国を倒していき、紀元前221年、38歳の時に天下統一を果たし、「秦の始皇帝」として君臨することとなる。皇帝とは、皇も帝も神という意味であり、始皇帝は自分をすごい神だと言ったというわけである。

 

-天下統一後
始皇帝は天下を統一した後は様々なものの統一化をしたり、治安維持活動をしたり、国を守るための公共事業もしたりと様々なことをする。中国を統一したというのは当時秦は他の6国を圧倒していたから別に始皇帝じゃなくても出来たとも思われるが、20世紀に入るまでの中国の原型を作り出したのは始皇帝が有能だったからだと考えられる。そんな中国の原型、誇れるものを壊したのは毛沢東という人物である。色々な見方があるが、誇れる文化を破壊したのは間違いなく毛沢東の所業によってである。
始皇帝は、女遊びや飲食などには興味がなく、仕事が友達というくらい仕事が好きだったようである。この仕事というのはいわゆる事務的な仕事、デスクワークである。始皇帝は事案の全てを一人で決済するのが好きだったのである。毎日のノルマは27kgの文書の解決、朝から晩まで全く休まず続けたから、皇帝としての裕福な生活は送ってなかったとされる。
他に始皇帝が行った政策としては、封建制度を廃止して郡県制へと変えたことである。この封建制とはそれぞれの地域を功績のあった家臣に支配させるというもの(鎌倉幕府のようなもの)だったが、そんな封建制から郡県制という全国を36のブロックに分けてそれぞれに責任者を派遣して統治する方法に変えたのである。こうすることで国家の安定を目指した基盤づくりが進められた。
そして、次に行った政策が度量衡の統一、貨幣の統一、文字の統一である。とにかく統一が大好きである。これは各国での取引などをちゃんとするために統一したものである。度量衡の統一は重さ、長さ、量の単位の統一、貨幣の統一は半両銭への統一である。
次の政策が国を守るために万里の長城を建設したり、道路の整備を行った。万里の長城は元からあった国を守るための長城を一つにつなげたという感じである。これほどのことを始皇帝がトップになってから一気にやるのである。あまりにも大変だったので、命を落とすものもいたし民衆に娯楽がなかったりとすごい反発を受けていたこともあって秦は始皇帝が亡くなってからわずか3年後に消滅することとなる。

 

●始皇帝が暴君と呼ばれる理由
焚書坑儒:書物を全て焼き捨て儒学者を全て殺すという思想弾圧である。(三国志の曹操も儒教に反対派だったが、さすがにこれほどではない。。) 秦は元々、法治主義で法を重んじる国だったので、始皇帝は色んな法学者を起用していた。その法学者達が「法治思想体制に不満を持つものは徹底的に弾圧すべき」といったから民を惑わす書物は全て焼き、今の法治体制に物言う儒学者は全て埋めてしまったというわけである。
儒学者を埋めたとされるもう一つの理由としては、始皇帝といえば不老不死を求めたというのが有名である。始皇帝は、不死の薬を手に入れるために除福という方士(魔法が使えたり錬金術が使える人)にとってきてもらうよう頼んだ。ところが見つかるはずもなく始皇帝は除福含む大勢に何故見つからなかったかを聞いた所、皆責任逃れのために「あいつのせい、あいつのせい」と言ったため、「あいつ」をまとめて埋めてしまいその中にたまたま儒学者が多かったので坑儒と呼ばれたという説もある。
そして、自分の偉さを皆に見せ付ける必要があったため、多額の費用を使い中国全土を視察していった。この当時は、神が信じられていた時代であり、全土を巡るにあたり始皇帝を見た民衆はただのおじさんの風体であることを知り、誰もが自分でも始皇帝になれるのではないかと考えてしまいこれも秦が早く滅びる要因ではなかったかとされている。始皇帝はこんな全国巡りの中でも仕事は欠かさず行っていた。そして始皇帝は全国巡りの5回目に体調を崩して死去する。これにも諸説あるが、不老不死のために水銀を飲んだからという説もあるが、これはあくまでも臆説である。始皇帝書物には病死と書いてあるため水銀を一気に飲むなんてことはなく、毎日少しづつ飲んでいたという説がある。始皇帝の死去後、3年後に秦は滅びるが万里の長城建設などでの民の酷使による反発が大きいとされている。秦が滅んだ後は秦のように法治主義をするというのはダメだという考えを広めるために過秦論というのが作られた。そのため、始皇帝は悪いイメージで語り継がれているのではないかという意見もある。そして、始皇帝が死んだ際は460人ほどが一緒に墓に生き埋めにされたとされている。

 

●感想
現在、漫画やアニメで人気がある「キングダム」。実写化では、中心人物である嬴政を俳優の吉沢亮さんが演じられていました。漫画やアニメではカッコよく描かれたり、実写ではカッコいい俳優さんが演じていますが、実際はもしかしたら「ただの太ったおじさん」だったのではないかという逸話は非常に面白いと思いました。度量衡の統一などは豊臣秀吉が行った太閤検地における単位の統一を非常に似ていると思いました。やはり、天下を治めるには共通した単位や貨幣を用いることが必要になるという思想はどの時代、どの国でも共通しているんじゃないかと感じました。
せっかく中国統一したのに、始皇帝が亡くなってからたった3年で秦が滅びたのはなんとも哀れな結末ではないでしょうか。また、始皇帝は死んだ際に一緒に生き埋めにされる人が460人いたという話には、改めて中国のスケールの大きさにびっくりさせられました。笑

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