【勝海舟】坂本龍馬の師匠!江戸城を無血開城へと導いた幕臣とは!?

教養/豆知識

勝海舟という名前を聞いたことがある人は多いのではないでしょうか。

江戸無血開城いわゆる新政府軍と旧幕府軍との争いで江戸を戦火とすることなく話し合いで新しい時代の明治へと導いた立役者になります。

今回は勝海舟そして江戸無血開城成功までの道のりについて簡単ですが、ご紹介させて頂きたいと思います

 

●プロフィール
名前 勝 麟太郎(幼名)→義邦(名)→安芳(明治維新後改名)
海舟は(号)にあたる
生誕 1823-1899(75歳没)
出生 江戸本所亀沢町(現在の東京都墨田区両国の一部)
肩書 初代海軍卿、江戸幕府最後の陸軍総裁、幕末期の開明的な幕臣、最期の言葉は「コレデオシマイ」

 

●勝海舟の人生についてざっくり説明
1.武士の子として江戸で生まれる
石高41石余の貧乏旗本の勝家に生まれ、熱心に剣道や座禅に取り組む。

2.蘭学を学ぶ
15歳になると、父親のあとを継ぐ。19歳ごろからオランダ語を学び始める。やがて自分で蘭学の塾を開く。

3.江戸幕府に使える
1853年、ペリーが開国を要求。幕府は大名に限らず広く意見を求め、この時海舟の書いた「海防意見書」が高く評価され幕臣として取り立てられる。

4.咸臨丸で太平洋を渡る
1860年、海舟はオランダから買い入れた咸臨丸の艦長としてサンフランシスコに行く。

5.神戸に海軍操練所をつくる
サンフランシスコから帰ってきた海舟は、国を豊かにする必要があると考え、神戸に海軍操練所を開設。しかし、幕府と長州藩の戦争中に役職を降ろされ、まもなく海軍操練所は閉鎖される。

6.江戸を戦火から救う
1867年大政奉還、そして1868年王政復古の大号令により、倒幕勢力は新政府軍を組織して、徳川家を倒すために江戸に兵を進める。このとき海舟は、「日本を守るためには国内が1つにまとまって協力しなければならない」と考え、新政府軍の西郷隆盛と話し合い江戸無血開城へと導く。

7.洗足池に別荘を構える
海舟は、明治維新後も徳川家を支え、新政府からも頼りにされながら明治の世の中を生きる。1891年別荘を建て、1899年75歳で没。

●江戸無血開城までの道のり
時代は新政府軍と旧幕府軍とのバチバチの動乱期になります。
鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍の敗色が濃厚になると、徳川慶喜(以下慶喜)は江戸に逃亡します。
慶喜はすぐにでも新政府側である徳川征伐軍の江戸への襲来が予想されることから新政府に恭順の意思を固めました。
そして、慶喜は上野の寛永寺に移って謹慎し、江戸を勝海舟に任せることにします。
新政府軍は慶喜を討つべく京都から江戸へ向かい、江戸総攻撃をしかけることが決定しました。
新政府の江戸総攻撃が近づいている中、勝海舟と山岡鉄舟(幕末の三舟の1人)はなんとか新政府と交渉しようと奔走し、そして、なんとか新政府側と話し合う場を設ける事に成功します。
この時会談する事になったのは、旧幕府側は山岡鉄舟、新政府側は西郷隆盛になります。
西郷は山岡に対して、①慶喜の身柄を備前藩に預ける、②江戸城を明け渡す、③軍艦を全て引き渡す、④武器を全て引き渡す、⑤城内の家臣は向島に移って謹慎する、⑥慶喜の暴挙を補佐した者を処罰する、⑦暴徒が手に余る場合は官軍が鎮圧する、といった7つの要求をしました。
山岡はほぼすべての条件を受け入れる姿勢を見せますが、慶喜を備前藩に預ける項目だけは強く反対します。主人を売る真似は死んでも出来ないという忠義心に心を動かされた西郷は山岡に慶喜の身の安全を約束します。
新政府軍は西郷が旧幕府側と交渉する一方、侵攻を止める事無く江戸に近づいて来ます。
そんな時、イギリスの外交官であるパークスが新政府側に圧力をかけ江戸総攻撃の中止を要求します。
無抵抗の慶喜率いる旧幕府軍に対して攻撃するのは違法であるとし、さらにそれでも攻撃するならこれから2度と新政府には協力しないと言ったのです。
さすがにここでイギリスを敵に回す訳にはいかないということで、江戸総攻撃を肯定していた新政府側の者達も江戸を攻撃したらとんでもないことになると気付き旧幕府側と新政府側が会談することになりました。
新政府側の代表は前回同様に西郷隆盛、旧幕府側は勝海舟になります。
新政府側は、①慶喜は水戸で謹慎する、②慶喜を助けた諸侯には命に関わる処分はしない、③武器、軍艦は処分が決まった後に差し渡す、④城内居住の者は城外に移って謹慎する、といった提案を出し勝海舟はそれを受け入れました。
こうして江戸城攻撃は2日前にストップすることとなります。
そして、慶喜は水戸に退去し江戸城は1滴の血も流さずに新政府に明け渡され江戸無血開城となったのです。

●勝海舟の名言

自分の価値は自分で決めることさ。つらくて貧乏でも自分で自分を殺すことだけはしちゃいけねぇよ

世の中に無神経ほど強いものはない

行いは己のもの。批判は他人のもの。知ったことではない。

人は逆境に立たなけりゃ本物じゃないよ

人はみな、信ずるところを行えばよいのさ

行蔵(こうぞう)は我に存(そん)す。毀誉(きよ)は他人の主張※
出処進退は自分で決めたことである。それへの批判は他人が勝手にすればいい。

※幕臣でありながら江戸城の無血開城を主導しただけでなく、新政府に登用され爵位まで授かった勝海舟に対し、福沢諭吉が『瘠我慢の説』の中で「やせ我慢が足りなさすぎる」と批判したことへの返答

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