【全戦全勝!】古代ギリシアの英雄の中の英雄アレクサンドロス大王とは!?

教養/豆知識

古代ギリシア今からおよそ2300年前、アレクサンドロス大王という無敵の大王がいました。アレクサンドロス大王は、ハンニバルやカエサルやナポレオンなどの有名な歴史上人物達から大英雄と認められていて、もしアレクサンドロス大王がいなければ人類の美人の感覚が今と違っていたかもしれない、と言われるほどの莫大な功績を築き上げた「英雄の中の英雄」です。今回はそんな伝説となっているアレクサンドロス大王について紹介したいと思います!!

 

●プロフィール
出身 マケドニア王国首都であった都市遺跡ペラ
出世 紀元前356-紀元前323(32歳没)
名前 アレクサンドロス3世
通称 アレクサンドロス大王、アレクサンダー大王、アレキサンダー大王
別名 イスカンダル(ペルシャ語、アラビア語)
その他 フィリッポス2世の息子、家庭教師はアリストテレス、アマゾンの「アレクサ」はアレクサンドロス大王がモデル、オッドアイ

 

●生涯
アレクサンドロス3世(後のアレクサンドロス大王)は、2300年前古代ギリシア時代「マケドニア」で生まれる。古代ギリシアには、国という概念がなく、小さな村同士がいくつも集まってアテネという集団やスパルタという集団が出来ており、この小さな村同士の集まりをポリスという。警察のポリスもこの古代ギリシアのポリスが語源である。ポリスは小さな村同士の集まりなので、王や強い権力をもった人というのは存在せず、平民や貴族が一体となって生活していた。アテネやスパルタやテーベなど様々なポリスがあったが、所属が違えど同じギリシア人ということで皆同じポリスの市民という意識があった。同胞意識が強いポリスの民だが、異民族であるバルバロイとして下に見られていたのが「マケドニア」である。強大な王権を持たないポリスの時代にマケドニアはいまだ王権制を敷いていたため、下に見られていたのである。

そんなスパルタやアテネもアケメネス朝ペルシアの介入やポリス同士の争いのせいで混乱状態に陥いっていく。そしてその衰退の隙を見逃さず、ギリシアの覇権争いに参加してきたのが「マケドニア」である。マケドニアの同時の王フィリッポス2世(アレクサンドロス3世の父)は、人質としてテーベに滞在していたことがあったが、その時のテーベには天才的な軍事指導者であるエパメイノンダスがいた。このエパメイノンダスにフィリッポス2世は、軍事や政治のことを多く学ぶ。それにより、マケドニアはとても強大化し、テーベにカイロネイアの戦いに勝利し、ギリシアの覇権を手に入れることとなる。このカイロネイアの戦いがアレクサンドロス3世の初陣であり、フィリッポス2世の支えもありながら勝利することとなった。そして、フィリッポス2世は息子であるアレクサンドロス3世を優秀な王にするために、軍事や政治など色々なことを教え込んだ。幼い頃の家庭教師は、西洋最大の哲学者の一人とされるアリストテレスであった。アリストテレスにギリシア人としての誇りやギリシア文化の素晴らしさなど色んなことを教えられたアレクサンドロス3世は生涯ギリシア文化を愛し続けたとされる。アレクサンドロス3世が東方遠征している際も見つけた植物や動物を逐一アリストテレスに送りつけ、アリストテレスもそれについて研究していたというほどアリストテレスとアレクサンドロス3世はずっと交流していたという。


時が経ち、父フィリッポス2世が護衛のパウサニアスに暗殺されると、アレクサンドロス3世は20歳でマケドニア王に即位する。そして、紀元前334年、22歳の時に父の遺志を継いでギリシア軍を率いてペルシャ遠征に出発する。

グラニコス川の戦い
アレクサンドロス3世が東方遠征を始めて1番最初にペルシャとぶつかったのは、グラスニコス川の戦いである。この戦いはマケドニア軍が38000、ペルシャ軍は40000と少しペルシャ軍に分がある状態だったが、アレクサンドロス3世は豪華な甲冑を身に纏い、自ら敵将のミトリダテスを投槍でしとめるとペルシア軍はアレクサンドロス3世に恐怖し、マケドニア軍は絶対的な信頼を寄せることになる。


↑イッソスの戦い。名馬ブケパロスに乗って戦うアレクサンドロス大王。
その後、小アジアに滞在するペルシャ軍を蹴散らしながら進軍し、紀元前333年、23歳の時にアンティオキアのイッソスでダレイオス3世率いるペルシャ軍と戦うことになる。このイッソスの戦いはペルシャ軍が12万、マケドニア軍は8万だったとされる。

↑マケドニア式ファランクス
アレクサンドロス3世に率いられたマケドニア軍は兵士の差をものともせず騎兵とファランクス(父フィリップス2世がテーベの人質時代に学んだ長槍を携えた重装歩兵の密集陣形とさらに長い槍サリッサの採用および方陣の大型化により、マケドニア式にオリジナルで作ったもの)を縦横無尽に指揮してペルシャ側に5万の損害を出させ、大勝利する。この戦いの途中でペルシャ軍が負けると悟るといち早く味方をおいてダレイオス3世は逃げてしまう。これにより、ダレイオス3世の母・妻・娘を捕虜にし、ペルシャからの和睦の申し出を拒否した。ダレイオス3世はこの戦いに絶対に勝てると思っていたようで自らの雄姿を見せつけるために妻や子だけに留まらず関係ない婦女子3万人を戦地に連れてきていたとされる。アレクサンドロ3世はこの置いていかれた妻や娘を捕虜として丁重に扱った。

こうしてイッソスの戦いに勝利したアレクサンドロス3世はエジプトへ向かう。当時のエジプトはペルシャ人に支配されていてとても苦しい思いをしていたため、ペルシャ人との戦いに勝利したアレクサンドロス3世はエジプトに到着した時に非常に歓迎されることとなる。こうして歓迎されたのち、エジプトに生贄を捧げることで事実上のエジプトの王「ファラオ」となる。さらにアレクサンドロス3世はエジプトのナイルデルタに”アレクサンドリア”という都市を建設する。このアレクサンドリアは、後にヘレニズム文化の中心地となり、キリスト教の5本山にもなる。そして、エジプトで十分に休息をとった後、さらに進軍する。


↑ガウガメラの戦い
そして、紀元前331年、25歳の時、チグリス川上流のガウガメラでペルシャ軍と再度戦うことになる。これが、ガウガメラの戦いである。イッソスの戦いでアレクサンドロス3世の恐ろしさを身をもって体験し、味方を置いて逃げ帰ったダレイオス3世は15万以上、伝承の一つとしては100万の兵を用意して準備していたとされる。
実際は15万ほどの兵だと考えられる。ペルシャ軍15万に対してマケドニア軍の兵力はわずか4万であった。この戦いの途中においても、ダレイオス3世がまたしても逃亡してしまい、指揮系統が乱れてしまった。イッソスの戦いが再び脳裏をよぎったのではないかと考えられる。アケメネス朝ペルシャは事実上このガウガメラの戦いで滅亡する。そして、ダレイオス3世は、逃げ帰った場所で部下に殺される。こうして、アレクサンドロス3世は、マケドニア王であり、エジプトの王ファラオでもあり、ペルシャ王でもあるというまさに「アレクサンドロス大王」となったのである。ガウガメラの戦いで勝利したアレクサンドロス大王はペルシャの中枢に入り、バビロン、スーサ、ペルセポリスで破壊と略奪の限りを尽くしていく。これは、100年前にペルシャがギリシア世界の誇りである、アテナイのアクロポリスを焼き払ったという積年の恨みがあったからだとされる。
しかし、アレクサンドロス大王はペルシャの進んだ文明を実際に目の当たりにして心変わりをする。広大な土地を収め、民衆に支持されていたダレイオス3世に尊敬の念を抱き始めていた頃、ダレイオス3世が部下に殺されたため、殺したベッソスという人物を残酷に処刑する。さらに、アレクサンドロス大王はペルシャ帝国を征服するためバクトリアやゾグディアナも平定する。しかし、この戦いはとても労力や精神力が消耗されたため、マケドニア軍の指揮を大いに低下させる結果となる。こうして、アレクサンドロス大王と部下との間に溝ができ始める。


↑インド北部ヒュダスペスの位置
そしてその後、インダス川を渡りインドに侵攻し、パンジャーブ地方でヒュダスペス河畔の戦いに勝利し、インドも支配下に置く。この戦いでは、マケドニア軍も2万もの死者を出し、またしても士気を低下させてしまう。アレクサンドロス大王はまだ見ぬ世界を目指してさらに進軍しようとするが、さすがの部下も待ったをかける。これ以上部下に無理をさせるのはいけないと進軍を中断することとなりバビロンに戻る。アレクサンドロス大王はペルシャ文化に魅了されていたので、どうにかギリシア文化とペルシャ文化の融合を目標にしていた。その結果、出来たのがヘレニズム文化である。他にも合同結婚式や法制改革などペルシャで色々な改革を行う。そして、アラビア遠征を計画するが、ある夜の祝宴中に突然倒れる。高熱に10日間うなされ、「最強の者が帝国を継承せよ」と遺言を残し、紀元前323年、32歳の時、死去する。(一説には、蜂に刺されたというものがある。)この遺言により、死後帝国が3つに分かれディアドゴイ達(後継者となった部下たちのこと)による後継者争いに発展する。この3つの帝国が「アンティゴノス朝マケドニア」と「セレウコス朝シリア」と「プトレマイオス朝エジプト」である。

 

●逸話や伝説
・アレクサンドロス大王が最も愛用していた馬はブケパロスという馬であり、イッソスの戦いやガウガメラの戦いの時も乗っていた。アレクサンドロス大王がまだ王に即位する前、フィリッポス2世への貢物としてマケドニアに連れて来られた馬がブケパロスであった。ブケパロスの気性はとても荒く、誰も乗りこなすことが出来なかった。そこでブケパロスが自分の影に怯えていることに気づいたアレクサンドロス大王はブケパロスの向きを太陽の方角に変えたところ興奮が収まり、無事ブケパロスを乗り回してみせたという。このブケパロスはインドのヒュダスペス河畔の戦いで戦死している。

・ある日、ディオゲネスという変人の話を聞いたアレクサンドロス大王が興味を持って彼に会いに行った。ディオゲネスは、自慰行為をお金もかからない少し体をこするだけで満足できる行為と称し、民衆が行き交う場所で平然とやったりした人物である。アレクサンドロス大王がディオゲネスに会い「余はアレクサンドロスである」と言うとディオゲネスは「私は犬のディオゲネスです」と言い返した。その後、軽く言葉を交えた後アレクサンドロス大王は「お前の欲しいものを何でも一つだけ与えよう」と言った所、ディオゲネスは「そこをどいて下さい。日光が遮られるので」と言い返した。そう言われたアレクサンドロス大王は何も言わずその場を立ち去ったという。その後アレクサンドロス大王はもし自分がアレクサンドロスでなければディオゲネスになりたいと言っていたそうである。(これは、作り話であるが、もしディオゲネスとアレクサンドロス大王が出会っていたらという想像のエピソードである。)

・アレクサンドロス大王が何か病気で臥せっている時、手紙で「侍医が暗殺を企てている」という知らせが来る。しかし、アレクサンドロス大王はその手紙を読んだにも関わらず侍医が出した薬を平然と飲み干した。そして、侍医に直接その手紙を見せ、侍医は「私の出す薬を飲んでいただければ必ず治ります」と一言。アレクサンドロスは大王は、自分の侍医を信頼していたというエピソードである。

・ガウガメラの戦いでダレイオス3世は圧倒的な軍の差があるため、夜中の奇襲攻撃に備えて部下をずっと基地に配備していたが、アレクサンドロス大王は奇襲の案を突っぱねたのでやって来ず、結果ダレイオス3世の軍は夜中ずっと奇襲に備えていたせいで無駄に疲労してしまい、圧倒的数の差を活かしきれず押されてしまった。アレクサンドロス大王の実直さが裏の裏をかき返っていい結果をもたらしたというエピソードである。

・アレクサンドロス大王のインド遠征の帰りの際、ゲドロシア砂漠を行軍している時のこと、あまりの暑さから部下が一人また一人と倒れていく中、部下がアレクサンドロス大王のために一杯の水を見つけてきた。しかし、アレクサンドロス大王は「部下がこんなにも苦しんでいるというのに、どうして自分だけがいい思いが出来ようか」と言ってぞの水を捨てた。

・その昔、小アジアのフリギアという場所では権力闘争ばかり行われていた。その時に神からの信託で「もうすぐ牛車に乗って現れるものが次の王だ」ということが告げられる。そんな神からの信託を受けた直後、神殿内に牛車に乗って貧しい農民のゴルディアスが入ってくる。そんなゴルディアスは、無事王に即位し、牛車を神に捧げ、その牛車を柱にきつく縛りつけた。そしてゴルディアスは「この結び目を解くことができたものがアジアの次の王だ」と言い残した。ゴルディアスの死後、数多の人物が挑戦するが誰一人解くことが出来なかった。そして100年後に現れたのがアレクサンドロス大王であった。アレクサンドロス大王は誰一人解くことが出来なかった結び目を剣で一刀両断する。こうして結び目は解かれたのである。そして、アレクサンドロス大王はその結び目を解いた(斬った)後、次々とアジアを征服し文字通りアジアの王となる。

 

●美化されすぎているという見方
・アレクサンドロス大王は自分より優秀かもしれない部下をとても毛嫌っていた。アレクサンドロスは軍人らしいという理由でペルディッカスを、軍の統率において優れているという理由でリュッシマコスを、勇敢だという理由でセレウコスをそれぞれ3人を憎んでいたとされる。こうした嫉妬心が非常に強い人物であったとされる。唯一の友、ヘファイスティオンを寵愛していた理由は将軍として優れている部分が何もなかったからと言われている。

・ガウガメラの戦いの後のアレクサンドロス大王の政治はペルシャを重視しすぎてマケドニアを蔑ろにしているという批判があった。アレクサンドロス大王の唯一の友と言えるヘファイスティオンという人物が急逝し、そのせいでアレクサンドロス大王の政治は少し冷静さが欠けていったとされている。もし長生きしていたら、暴君化した未来があったのではないかという見方もある。

・アレクサンドロス大王が直接残したものはごくわずかにすぎない。墓はいまだに発見されず、彼が各地に建設した都市アレクサンドリアも、エジプトのそれを例外としてほとんどが消滅した。大王を描いた彫像やモザイクはすべて後世に制作されたもので、原作は残っていない。にもかかわらずかれの巨大さを感じさせるのは一つにはアレクサンドロスが残した名前とイメージであり、後世において、実態以上に神格化された人物という見方もある。

・征服欲は旺盛だったアレクサンドロス大王だが、その後の統治システムを考えていた形跡は見受けられない。帝国を維持するシステムとしては、明らかに古代ギリシア人のものよりペルシア人の方が優れたものを持っていたと考えられている。アレクサンドロス大王個人のパーソナリティによって統合されていたにすぎなかったため、彼の死後、たちまちのうちに分裂し、アンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトの3つに分かれてしまう。これは、帝国を長期に渡って統一するビジョンがなかったからと考えられる。一般にアレクサンドロス大王がつくったといわれる「ヘレニズム文化」にしても、現在の研究では、ギリシアではなくローマ起源の文化とされている。

●豆知識
・現在使われている言葉の中には、古代ギリシアの時代の言葉が語源の数多くある。例えば、ありもしないのにあたかも真実かのように物事を言う「デマ」という言葉も、衆愚政治を行う政治家「デマゴーゴス」という人物が語源である。

・アレクサンドロス大王の遠征は3万kmに及んだ。(地球1周が4万km)

・旧ユーゴスラビア連邦から「マケドニア共和国」が独立しようとしたときに、ギリシア人はその国名の使用に大反対した。そのため「マケドニア共和国」は、「北マケドニア共和国」という名称を使うことが両国間で合意された。「マケドニア」という名称は、今日のギリシア人にとっても、大きな意味を持っている言葉ということである。

・インド遠征から早々と引き上げた理由として、部下の待ったが一つとしてあるが、もう一つの理由として、アケメネス朝ペルシャの領土から大きく離れたその場所にはもう軍隊を移動させられる大きな道がなかったことが最大の理由だと考えられる。アケメネス朝ペルシャには、インフラが整っており、アケメネス朝が整備した公道があって初めて遠征が可能だった可能性が高い。

 

●感想
若くして亡くなったアレクサンドロス大王。20歳にして王に即位し、その重責を全うしたことには本当にすごいと思わざるをえません。なぜ、彼がペルシャ帝国やインドなどアジアに向けて東征を目指したのか実の所、本当の理由は分かっていないというというのは非常にミステリアスで面白い点だと思います。理由としては、「古代ギリシアを度々脅かしてきたアケメネス朝ペルシアへの打倒という悲願の夢」、「得体の知れぬエモーションに突き動かされた征服欲」などが有名ですが、私個人としてはアレクサンドロス大王は内政よりも戦いが得意だったということなので戦をして勝つことで部下達に信頼され一つにまとめ上げようとしたのではないかと思っております。おそらく彼は戦いにこそ自分の価値を見出したのではないでしょうか。しかし、最終的に戦いを続けていく中で部下たちとの溝が出来てしまったのは悲しいことです。アレクサンドロス大王には色々な見方がされますが、太く短く生きた最たる例だと言えると思います。

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