ガンディーという名前を聞いて知らないという人はおそらくいないのではないでしょうか。第一次世界大戦後の非暴力・不服従活動によるインド独立運動の指導者で、第二次世界大戦後に独立を達成した人物になります。たとえ、どれだけ殴られようとも、差別されようとも、自分からは決して暴力を振るわない。そんな人物、そんな考え方が今のコロナ禍で我々の心を健康にしてくれる一つの助けとなるのではないかと思い、今回はマハトマ・ガンディーの人物像、思想についてご紹介したいと思います!!(ガンディーの名言集はこちらをご覧ください。)
・プロフィール
・生涯
-幼少期から弁護士までの道
-南アフリカでの開業、差別、サティヤーグラハ
-インド帰国、第1次非暴力・不服従運動
-第2次非暴力・不服従運動、塩の行進
-インド独立、ガンディー暗殺
・ガンディーの意外な一面
・感想
●プロフィール
名前 モハンダス・カラムチャンド・ガンディー
通称 マハトマ・ガンディー
出世 1869-1948(78歳没)
出身 インド西部グジャラート州の港町
肩書 インド独立の父、元弁護士
「マハトマ」とは、偉大なる魂という意味。
●生涯
-幼少期から弁護士までの道
1869年、インド西部グジャラート州にて裕福な家庭の次男として誕生する。幼少期のガンディーは、すごく内気で登校中に同級生から話しかけられるのが嫌だったため、始業ギリギリのタイミングを狙って行ったり、下校の際は一目散に帰宅していた。
1882年、13歳の時に許嫁と結婚する。
1887年、18歳の時に法学の勉強のためにイギリスに留学し、その4年後の22歳の時に弁護士資格を取得し、インドに帰国する。こうして弁護士になったガンディーだが、弁護士活動は上手くいかなかった。
-南アフリカでの開業、差別、サティヤーグラハ
そんな中、1893年、24歳の時、ガンディーはインド人商人の依頼で今度は南アフリカに行くこととなり、弁護士として開業する。この南アフリカでガンディーを待ち受けていたのは、激しい差別である。当時、南アフリカでは金やダイヤモンドを発掘するための労働力としてインド人移民が大量にやってきており、激しい差別にあっていた。南アフリカにやってきたガンディーは乗車拒否されたり、乗車券を盗んだとして扱われ追い出されたりするという激しい差別にあう。そんな南アフリカの現状を見たガンディーは、ナタールインド人会議を発足して政府と戦う。この運動が有名な「非暴力・不服従」運動である。ガンディーはどんな理不尽な仕打ちをされても決して暴力を振るうことはなかった。この「非暴力・不服従」運動はヒンドゥー教の教義を歌った歌集であるバガヴァッド・ギーターの不殺生の精神に則ったもので、サティヤーグラハと名付けられる。このサティヤーグラハというのは真実と愛から生まれる力という意味でガンディーの「非暴力・不服従」運動のことを指す。サティヤーグラハは、決して諦めないこと、そして、いかなる場合も決して敗北を受け入れないことである。
南アフリカで生まれた「非暴力・不服従」運動であるが、ガンディーがインド人のためにサティヤーグラハを行っている時に、あるちょっとした誤解から白人達に殺されかけることとなる。しかし、ガンディーは決してやり返さず、暴力も振るうこともなく、弟子達に告訴することを勧められるが、それも拒否している。ガンディーは「人々は真実を知ればきっと後悔する。それが罰です」と語ったそうである。
-インド帰国、第1次非暴力・不服従運動
1915年、46歳になったガンディーは、南アフリカに22年滞在して色々な活動をした後、インドに帰国する。インドに帰国したガンディーは国民全員から迎えられ、サティヤーグラハの道場を作り、労働者の争議や農民の反税闘争を指導したりする。
1918年、第1次世界大戦後の49歳の時、イギリスがローラット法(逮捕状なしに逮捕し、裁判なしに投獄出来る権限をインド総督に与えた法律)を制定したことをきっかけにインドの反英運動が激化した。反英運動を指導したガンディーは「非暴力・不服従」でイギリスに抵抗した。これを第1次非暴力・不服従運動という。ガンディーは断食と祈りでイギリスに独立を訴えるが、イギリスは暴力で弾圧し、これに怒った一部の民衆が仕返しにイギリス人の警官を殺害したりする事件が発生する。この第1次非暴力・不服従運動に対し、イギリス軍が発砲するなど暴力で弾圧しインド民衆を虐殺した事件をアムリットサール事件という。これにより、一部のインド民衆が暴動を起こすこととなる。ガンディーは、一部この暴動を止められなかったことにより、活動を一時停止する。
ガンディーは、チャルカという手紡ぎ車を用いて綿糸を紡ぎ、その綿糸で綿布を織り上げて国産品愛用、自国産業を育成しようとした。このガンディ―のチャルカを回す姿は民衆に運動の本質を教えることになった。
-第2次非暴力・不服従運動、塩の行進
1930年、61歳の時、ガンディーは第2次非暴力・不服従運動を開始する。これが有名な「塩の行進」という運動である。塩の行進とは、イギリスが当時インドで生活必需品である塩を作ることを自由としておらず、それに対してガンディ―は法律を破り、塩を作るために各地の海岸へ訪れイギリスに訴えるという活動であった。
当初は少人数であったガンディー率いる一行であったが、最終的にはガンディーを先頭に5000人にものぼる大行進となった。この塩の行進がきっかけとなり、ガンディーは世界中で有名になる。このガンディーの活動により、1947年、78歳の時、ついにインドは独立を果たす。
-インド独立、ガンディー暗殺
無事独立を果たしたインドであったが、しかし、その5か月後、独立へと導いたガンディーは1948年、同志であるヒンドゥー教徒により暗殺される。
ガンディーは、インド独立を目指す一方、宗教間の争いをなくそうとしていたため、ヒンドゥー教徒にも関わらずムスリム(イスラム教の信者)に非常に寛容に接していた。ヒンドゥー教とイスラム教は仲が悪かったにも関わらず、ガンディーはムスリムにも寛容に接したのである。こうしたことから不信感を募らせていた狂信者であるゴードセーというヒンドゥー教徒により暗殺されたのである。
●ガンディーの意外な一面
・束縛夫!?
ガンディーは、13歳という若さで結婚し、「このような早婚を良しとする道徳的論拠は、何処にも見つけられない」と語っており、自分の早婚に関して後悔している。この13歳という若さで結婚したガンディーが夫としての威厳を保つためにたどり着いた答えは、妻は貞操を守るべきだという考えであった。自分の許可なしに妻が外出することや、友達に会うことを禁じていたとされる。
・極度の〇ックス中毒者!?
16歳の時、父親が病気で寝込んでいる時に看病をしていたガンディーだが、叔父が看病を交代してくれて休憩することになったが、ガンディーは休憩中に眠っている妻と性行為をすることとなり、その間に父は息を引き取ってしまった。ガンディーは後に「性欲を消し去りたい」とまで言っており、誘惑に勝てなかったことを恥辱と呼んでいる。しかし、晩年になっても若い女の人と一緒に寝ていたりすることが発覚する。ガンディーはこの行為をブラフマーチャリヤという修行であり、「一切の禁欲を放棄した者だけが人間の条件を完全に実現する」と言って、一緒にいたが手を出してはいないと主張したという。
・過度な禁欲主義者!?
自分だけの決まりとして、食事は野菜しか食べない、断食をすることで禁欲を証明していたという。自分の性欲の強さを恥じた上での行動であったとされる。
●感想
非暴力・不服従というやり方でインド独立を果たし、世界を変えたガンディ―。暴力や支配あるいは戦争によってしか世界は変わらない、それを繰り返してきた歴史がある中で突如、ガンディーという人物が現れたことで世界は一変しました。この人物のすごさはまだ私自身ほとんど理解していないと思いますが、一つすごい考え方だと思ったのは、「地球を一つの生命体」とみなしているということです。地球を一つの人間の体だとして、イギリスが左腕、インドが右腕と置き換えた場合、右腕が邪魔だからと左腕が右腕を破壊し壊すことは、通常の人間では考えられない行動になります。また、仮に壊すとその人間自体がダメージを負うことになるのです。つまり、イギリス、インドが争うことはこの一つの人間の体として考えた場合、双方にとって何もメリットがないことをガンディ―は唱えているのです。ここまでマクロの視点で物事を考えることは非常に難しいですが、こうした高所で物事を見る視点を少しでも持ちたいと思いました。これから我々が生きていくうえで必要なのは、暴力かあるいは非暴力か我々一人一人が考えなくてはいけない課題だと思います。