きっと”ナポレオン”という名前はほぼ大多数の人がご存じだと思います。
ナポレオンはフランス革命を終わらせ、綿密な戦略で、数々の戦争に勝利し、貧乏貴族の息子から軍人そして皇帝に上り詰めました。革命の思想をバックにしつつも、自らを皇帝としたナポレオンの行動は矛盾していますが、同時に「絶対王政を解体」し、ヨーロッパ全土に革命の精神を「近代共和制国家の礎を創造する」大きな役割を果たした人物になります。
この謎に包まれた男の人生について簡単に紹介します!
・プロフィール
・ナポレオンの生涯
- 非凡な学生時代、16歳でフランス陸軍士官
- フランス革命勃発、フランス革命の鎮圧
- 人生をかけたクーデター、30歳で第一統領に
- ロシアとの戦いに敗北、35歳で皇帝、45歳で追放
- ナポレオン帰還、再び追放
・エピソード
・感想
●プロフィール
名前 ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)
出生 コルシカ島
出世 1769-1821(51歳没)
なんだかナポリタンとカルボナーラを連想させるような名前ですよね。笑
●ナポレオンの生涯
― 非凡な学生時代、16歳でフランス陸軍士官
1769年、地中海のコルシカ島の貧乏貴族の家に生まれる。10歳の時にフランス本土に行き、ブリエンヌ陸軍幼年学校に入学。数学がとても得意で、抜群の成績をおさめたと記録に残っている。ナポレオンは生涯にわたり、数学の勉強を続け、皇帝になってからも数学者を近くにおき勉強をしていたというほど数学好きであったとされている。
1784年、15歳の頃、パリのシャン・ド・マルス陸軍士官学校に入学し、専門として砲兵科に進む。他にも、騎兵科や歩兵科があったが、この時ナポレオンが人気の騎兵科を選ばなかったことが、後の彼の人生を動かすことになる。士官学校の卒業試験の成績は136人中42位であるとされ、後に英雄となるナポレオンとしては凡人の成績と思われるが、通常4年かかるところを11ヶ月で全過程を終了し卒業したのである。これは当時の最短記録であった。そしてナポレオンは、16歳1ヶ月でフランス陸軍の士官に任官することになる。
- フランス革命勃発、フランス革命の鎮圧
1785年、16歳の頃、ナポレオンは砲兵士官となる。1789年フランス革命(革命裁判所の判決により、マリー・アントワネットとルイ16世がギロチンにより斬首された有名な革命)が勃発したことで、ナポレオンの運命はさらに大きく動いていく。フランス革命は、当時のブルボン朝の絶対王政に対する市民革命であった。不平等な封建制度(主君が家臣に領地を、あたえて保護するのに対し、家臣は家来として仕えることを誓い、従軍の義務を負う制度)に対する平民の不満や小麦の不作で主食のパン価格の高騰などが重なり市民の怒りが爆発したのである。こうして低階層の市民が中心となった過激派「ジャコバン派」の恐怖政治が始まることとなる。この恐怖政治により、革命裁判所が生まれた。この頃、ナポレオンはどんどん出世を重ねていく。
1795年、26歳の頃、ヴァンデミールの反乱が起きた際に市街地で一般市民に対して大砲を撃つ大胆な砲術で反乱の鎮圧に成功し、その功績によりフランス国内軍司令官となる。昇進したナポレオンは、今まで負け続けていたオーストリアとの戦いに連戦連勝し、イタリア方面の領土を拡大していく。
― 人生をかけたクーデター、30歳で第一統領に
1798年、29歳の頃、無敵のナポレオンが唯一苦手な国がイギリスであった。イギリスと戦うには海上となり、陸上での戦いは得意であったが海上では勝てなかった。そこでナポレオンは直接ではなく、周りから攻めてイギリスの国力を下げることを考える。イギリスとインドの中継地点エジプトへ攻撃を仕掛ける。ナポレオン軍はオスマン帝国の支配下にあったエジプトに上陸し、ピラミッドの戦いで勝利する。そんな中、フランス国内は反乱がおき騒然としていて、また他国から孤立した危険な状況となっていた。それを知ったナポレオンは軍をエジプトに置いたまま側近と急いで本国に戻る。そして、フランス政府にクーデターを仕掛け、当時の総裁政府を打ち倒し統領政府から実質的に独裁権を奪い、ナポレオンは第一統領となる。そして、フランス革命は事実上終焉を迎える。この時、ナポレオンは弱冠30歳であった。
もし、このクーデターが失敗していたらエジプトに軍を置いてきたナポレオンは敵前逃亡や国家反逆として処刑されていたと思われる。すなわち、このクーデターはまさに人生をかけたものであった。そしてナポレオンがエジプトを攻めていた間に結束していたヨーロッパ諸国の同盟を破壊するために、ナポレオンは、ドイツとイタリア方面に攻撃し次々と勝利していく。
― ロシアとの戦いに敗北、35歳で皇帝、45歳で追放
フランス国民は、長く続いた国内の混乱において軍事政権であるナポレオンを強く支持した。その支持を背景に税制や教育制度を改革していき、フランスに秩序を取り戻していった。これまでフランスには王はいたが、皇帝はいなかった。ナポレオンが皇帝という称号を選んだ理由として、王だとルイ王朝のイメージと重なり新鮮味がないこと、そして古代ローマの英雄カエサルに重ね合わせたためだとされている。
1804年、35歳の頃に皇帝となる。そこからの数年間は国内も安定し、国民からの支持も高く全てが上手くいっていた。ここでやめておけば歴史的な名君として名を残していたが、国内のことをやり尽くしたナポレオンはやがてヨーロッパ全土の征服という野望を持つことになっていく。
イギリスを屈服させようと動き出し、海上で戦いを挑むが世界三大提督であるイギリスのネルソン提督にやられ、フランス軍は大敗北を喫する。しかし、ナポレオンの勢いは止まらずオーストリアを攻撃し、ウィーンを占領する。オーストリア皇帝は北に逃れ、ロシア皇帝と合流する。
こうして、フランスvsロシア&オーストリアの三帝会戦が勃発するが、ナポレオンはこの戦いにも勝利し、ヨーロッパ中央を制圧する。この戦いの勝利の記念として建てたのがパリの凱旋門である。
1808年、39歳の頃にはイギリス以外のヨーロッパのほとんどの国は直接、または間接的にナポレオンの支配下であった。しかし、ロシアがナポレオンが敷いた大陸封鎖令を破り、当時産業革命中のイギリスとの貿易を再開する。ナポレオンは、封鎖令の継続を求めたがロシアがこれを拒否したため対ロシア開戦を決意し、侵攻を開始する。ロシアは攻め込んできたフランス軍に対し抗戦ではなく、ゆっくりと後退し、フランス軍が手に入れようとする食糧を燃やしていく。(この時のナポレオンの戦い方は基本的に食糧は現地調達というものであった。戦争での食糧は究極現地調達というのは、インパール作戦の牟田口廉也を彷彿とさせる。)
こうして、フランス軍を自然に消耗させていく作戦は成功し、モスクワに到達したフランス軍は当初の1/3となっていた。ロシア軍はモスクワをも焼き払い、物資をなくし、追い討ちのようにロシアの冬が訪れる。なすすべをなくしたナポレオンは撤退を余儀なくする。ここぞとばかりに撤退するフランス軍をロシアのコサック騎兵とロシアの冬将軍が攻めて最終的にはフランス軍の兵士は1%以下となる5000人となってしまった。こうしてさらに、フランスvsヨーロッパ諸国連合が起こり、フランスはどんどん攻め込まれ首都パリを制圧される。
1814年、45歳の頃、ナポレオンは皇帝の座を降ろされることになり、イタリア近海の島、エルバ島に幽閉される。
― ナポレオン帰還、再び追放
ナポレオンは追放から1年後、島を脱出し、パリに帰還するとまたしてもフランス皇帝に君臨する。再度フランス軍vsヨーロッパ諸国連合の戦い、ワーテルローの戦いがおこるが、フランス軍はまたしても敗退しナポレオンは100日足らずで皇帝の座を降ろすこととなる。そして今度はアフリカの南西部に浮かぶ島セントヘレナ島に流されてここで一生を終えることとなる。1821年、51歳でこの世を去る。
ナポレオン亡き後、ナポレオンによって荒らされたヨーロッパ諸国の王様達はヨーロッパをナポレオン以前に戻すことで社会の安定を求めていった。
しかし、フランス革命の「自由や平等の理念」や「経済の発展」により市民が力を持ったことでヨーロッパ中に革命の嵐が巻き起こっていくこととなる。
●エピソード
・雪合戦で指揮官の能力を発揮!
ブリエンヌ陸軍幼年学校に通っていたとき、冬の行事として雪合戦をやっていた。この雪合戦は、模擬戦闘としてガチでやっていたとされるものである。ナポレオンは、築城法で学んだことを活かし、クラスメートを2組に分け城砦を築き、自分自身は参戦せずに、腕を組み戦局を見守り的確な指示を出していたとのこと。すでに10歳ぐらいで指揮官としての非凡な才能を発揮していたというエピソード。
・妻の浮気を嘆く手紙が敵国の新聞に晒される!
ナポレオンは生涯で2回の結婚をしており、最初の妻ジョゼフィーヌとは27歳の頃に結婚しているが、浪費家で旦那のラブレターを他人に見せて大笑いするようなちょっとおかしい女性だったと記録に残っている。そして、ナポレオンはそんなジョゼフィーヌを愛し続けていた。
しかし、ナポレオンが戦地に行っている間にジョゼフィーヌの浮気を風の噂で知ってしまう。その浮気を嘆き離婚も辞さないという思いを綴った手紙を彼女に送るが、この手紙を乗せた輸送船がイギリス軍に乗っ取られてしまい、この手紙がイギリスの新聞に晒されることになってしまった。
・ロゼッタストーン発見!
ロゼッタストーンとは、古代エジプト文明を解き明かす重要な石碑である。この石碑を発見したのは、なんとナポレオンであった。1799年、30歳の頃、エジプト遠征の際にアレクサンドリア近郊の町でピエール・フランソワ・ブシャール大尉によってエジプトの港町ロゼッタで発見された。このロゼッタストーンは大英博物館に展示されている。
・ベートーベンの交響曲「英雄」のモデル!
あの有名なドイツのベートーベンは、ナポレオンと同時期に生きた作曲家であり、第三交響曲として作曲したのが英雄であった。この曲はナポレオンを尊敬していたベートーベンが、ナポレオンを讃える曲として作曲したとのこと。この曲が出来て少し経った頃に1804年、ナポレオンが35歳の頃に皇帝になったことを知り、「ナポレオンも権力の亡者に過ぎなかった」と言い、怒りと失望から曲名を当初のボナパルトから英雄に変更したと言われている。ちなみにベートーベンは、生涯で9個の交響曲を作ったが、1番良い出来は英雄だと即答している。
・パリの凱旋門を作った!
三帝会戦と呼ばれるフランス対オーストリア&ロシアの戦いに勝利した記念として造られたのがパリの凱旋門である。しかし、建造途中にナポレオンは亡くなってしまい見ることは出来なかった。
●感想
現在のフランスの法律で豚の名前にナポレオンと名付けてはいけないという法律があり、その理由は、ナポレオンのイメージを損なうためみたいで、もし名付けた場合不敬罪にあたるとのことです。こうしたことから、今だにナポレオンは、フランス国内で超英雄視されていることが分かります。当時のフランスで民衆や著名なベートーベンからも尊敬されていたナポレオン。国が混乱しているときには、いつの時代や場所でもこうした強烈なキャラクターが登場してくるのだなあとしみじみ感じました。若い時から非凡な才能を発揮してどんどんのし上がっていき皇帝になりましたが、晩年の失墜具合は切なくなってしまいます。オーストリアやドイツ、イタリアなどに勝利していき「ヨーロッパ全土の征服」という果てしない野望を持ったことが、破滅の道へと向かうことになったのだと思います。最終的には、ロシアにやられ、ヨーロッパ諸国から総攻撃をもらう形になってしまいました。しかし、時代の転換期の中、彼の活躍により今現在当然のようにある人権、そして自由や平等の理念があるのだと思います。