ケンカ上等!鉄血宰相「ビスマルク」名前は聞いたことはあるけど具体的に何をした人なのか分からないという人はきっとおられると思います。
ビスマルクは、ドイツを弱小国から強国にした人物になります。若い時のビスマルクは札付きのワルで、酒と女遊びで借金まみれ。そして誰かれ構わずケンカをふっかけるという荒くれものだっでした。
後に、プロイセン王国の首相になったビスマルクはハプスブルグ家が支配するオーストリアを力で追い出し、ナポレオン3世が率いるフランスも巧みな戦術で撃ち破り、19世紀のヨーロッパで次々とジャイアントキリングを起こしていきます。そして、ドイツの観光地として有名な”ノイシュヴァンシュタイン城”はビスマルクの巧みな外交力の賜物でした。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という名言をのこしたビスマルク。そんなビスマルクについて簡単に紹介したいと思います!!
この記事はNHK「ザ・プロファイラー」を参考にしています。
●プロフィール
名前 オットー・フォン・ビスマルク
出生 プロイセン王国
出世 1815-1898
193cm 123kg(Max時)
ドイツ鉄血宰相 プロイセン王国首相 反自由主義 愛妻家
●ビスマルクの生涯
―不良少年が首相に
1815年、ビスマルクはベルリンから西へ100kmの場所にあるシェーンハウゼンで誕生する。当時のドイツ連邦は、35の国と4つの自由都市からなる連邦組織であった。プロイセン王国やオーストリアもそれに含まれていた。父はユンカーと呼ばれる地位でプロイセン王国に仕えて地方の領地経営をする田舎の貴族であった。ビスマルクはそんな父を尊敬していた。一方、母とは反りが合わなかった。ビスマルクは、母を「美しく頭脳明晰であったが、情けをほとんど持ち合わせず、厳しく冷たい人に見え小さい頃は母が嫌いであった」と評している。
1822年、6歳の頃ビスマルクはベルリンの寄宿学校に入学し、エリート教育を施された。英語、フランス語を習得するなど成績優秀であった。
1832年、17歳の頃ゲッティンゲン大学に入学すると急に授業に出なくなる。奇抜な服を着て犬を連れ毎日アテもなくうろついており、仲間と会えば酒をあおり、ケンカに明け暮れていた。そんなビスマルクが唯一興味を持ったのが歴史学であった。ビスマルクは友人への手紙で「プロイセンで最大のゴロツキになるか最も偉くなるかだ」と述べている。
1835年、20歳の頃ビスマルクは、母の望み通り官僚として働き始める。しかし、単調なデスクワークにすぐ飽きてしまう。変わりに夢中になったのが、恋愛であった。仕事をサボり各地で恋人と豪遊し、金が尽きるとギャンブルに手を出していた。そしてビスマルクは借金が溜まり、無断欠勤が積み重なり職場を逃げ出す。
1839年、24歳の頃に手を出したのは農場経営であった。父の後を継ぎ故郷でユンカーとして働くことになる。しかし、時が経つとすぐに飽きてしまい何をするにも長続きしなかった。
1842年、27歳の頃大きな転機として友人にキリスト教のサークルに誘われる。プロイセン国王の側近達もサークルに来ており政治家への道が切り拓かれる。ビスマルクはこの側近達の推薦で、衆議院議員になることが出来た。そして、サークルの中にいた7歳年下のマリー・フォン・タッデンと結婚するが、1846年ビスマルクが31歳の頃病でマリーは亡くなってしまう。
ところが、ビスマルクはマリーが亡くなった翌月、マリーの友人であったヨハナ・フォン・プトカマーにプロポーズするという驚くべき行動をする。ヨハナは、社交的ではなく信仰と伝統を重んじて非常に地味な女性であったとされる。そして、1847年、32歳でヨハナと結婚する。議員として政治に没頭していく。この時期にビスマルクは「プロイセン君主は、神からの恵みによって絶対的な王権を所有しているのです。」と君主主義に対する忠誠を主張している。
1851年、36歳の頃熱心な仕事ぶりが評価され、ビスマルクは外交官に抜擢される。1852年外交官となったビスマルクが意気揚々と向かったのは、ドイツ連邦の各国が集まるドイツ連邦議会であった。ここで見たのはプロイセン王国の2倍の規模を持つオーストリアの巨大な権威であった。当時、オーストリアの宮殿の主はハプスブルグ家であった。ハプスブルグ家はヨーロッパの国々と交流を結び、神聖ローマ帝国の皇帝を兼ねるという名門である。当時、プロイセン王国はドイツ連邦の中ではNo.2の存在であった。そんなオーストリアを敵視していたビスマルクは議会ではオーストリアの議長だけが葉巻を吸うのを許されていたが、オーストリア代表の目の前で葉巻を吸い出した。こうした行いから、オーストリアの外交秘密文書には、「時には紳士らしくするものの本性は傲慢で卑怯、過剰な自惚れに大ボラふき、オーストリアへの嫉妬と憎しみでいっぱいで常に戦いを挑んでくる」とビスマルクについて記載されている。
1862年、47歳の頃ビスマルクはついにプロイセン王国の首相に就任することになる。プロイセン国王ヴィルヘルム1世の推薦であった。当時のプロイセン王国は、トップがプロイセン国王⇨首相⇨下院であるプロイセン議会という構図であったが、プロイセン議会は国王に否定的な自由主義議員が多数を占めていた。そのため、国王と議会が対立し、政治が麻痺していたのである。そこで、国王への忠誠を常々行なっていたビスマルクにヴィルヘルム1世は目をつけたのである。
首相になったビスマルクはプロイセン王国を周囲の国に認めさせる大国にすることに野心を燃やすこととなる。そこでドイツ連邦のNo.1の大国オーストリアは邪魔な存在であった。
―強国オーストリアとの対決に勝利
首相になってからの直ぐの演説でビスマルクは「時代の大問題を決着させるのは演説や多数決によってではない。鉄と血によってだ」と後世に残ることを語る。鉄は武器、血は兵士を意味する。まさに力によって政治を変えよう、軍備拡張が重要と考えたのである。しかし、当時の議会は自由主義の議員が多く君主主義のビスマルクの案は否決されてしまう。そんな中、ビスマルクはプロイセン憲法の抜け道を使い議会の了承なく軍備拡張をする。プロイセン憲法には、議会で合意せず予算が成立しなかった場合のルールが決められていなかった。予算不成立の後、ビスマルクが国王の承認で予算を使っても憲法違反として罰せられないのであった。また、ビスマルクはそれまで貴族が多数を占めていた議会に労働者や農民などさまざまな階級の人達を取り入れた普通選挙を設けたことで自由主義の議員達の影響力を弱めたのである。
またビスマルクは、工業化へも力を入れていく。豊富な石炭が取れたライン川の流域には製鉄会社や軍需産業のクルップ社などを建てた。そして各地を結ぶ鉄道網を構築していく。
1866年、50歳の頃、国力の充実に手応えを感じたビスマルクは他国へ目を向ける。そしてビスマルクはヴィルヘルム1世に「プロイセンこそドイツの頂点に立つ正当な権利を持っております。それに対しオーストリアは、その嫉妬心ゆえ指導する能力もないのにプロイセンにドイツの指導権を許してこなかったのです。」と述べている。そして、ビスマルクはフランクフルトで行われたドイツ連邦議会でドイツ連邦から議長国であるオーストリアを抜くという案を大胆な策を提示する。オーストリアの猛反発を招くことになった。
1866年、51歳の頃普墺戦争(プロイセン国王vsオーストリア)が始まる。オーストリア側の勢力は40万、プロイセンは32万であった。プロイセン軍には参謀長モルトケがおり、長い間プロイセン軍を率いてきた。滅多に人を褒めることのないビスマルクをモルトケを評価している。モルトケは戦争前に鉄道部を設立し、ドイツ各地に5本の線路をひかせていた。
同年、7月3日オーストリアの国境付近のケーニヒグレーツの戦いが始まる。モルトケは、鉄道を使い3方向からケーニヒグレーツに部隊を送り込んだ。25万の兵士や数トンにもなる大砲をあっという間に敵陣に送りこむという当時の戦い方では考えられない作戦であった。プロイセン軍は3方向からオーストリア軍をどんどん攻め込み、最新鋭の銃で倒していった。こうしてケーニヒグレーツの戦いは半日でプロイセン軍の勝利で終焉する。勝利の知らせを聞いたヴィルヘルム1世は歓喜し、この勢いのまま戦争を継続しようとするが、ビスマルクはヴィルヘルム1世を説得し、他のヨーロッパ諸国が介入する前にオーストリアと講和を結ぶ。ビスマルクは、オーストリアとの開戦前に、フランスとイタリアに戦争に介入しないよう根回ししていたが長期戦になればどうなるか分からないと考え早めに講和に持ち込んだのである。
1867年、52歳でオーストリアを排除し、プロイセンを中心とする北ドイツ連邦が誕生する。こうしてプロイセンは1枚岩となり、次なる野望に燃えることになる。
―フランスに勝利、ドイツ統一
北ドイツ連邦(プロテスタント派)の統一を果たし次なる野望はドイツの統一であった。その目標において2つの壁があった。1つ目は、南ドイツ諸国(カトリック派)の存在であり、特に最も力を持っていたバイエルン王国が抵抗していたこと。2つ目は、フランスのナポレオン3世の存在であった。南ドイツ諸国と揉めれば、フランスに付け入る隙を与えてしまうことになりかねないこと。
1870年、55歳の頃、スペイン王位継承問題が発生する。候補の一人としてプロテスタントの分家に当たる出のレオポルトをビスマルクは応援した。これに危機感を持ったのは、ナポレオン3世であった。もしレオポルトが王位を継承した場合、フランスの西と東をプロテスタント派が支配することになり、戦争が起これば、挟み撃ちにあう可能性があった。フランスはプロイセン王国のスペインの応援に対し猛抗議する。これに対し、フランス大使がヴィルヘルム1世に要求したことと、それを国王が断ったことが書かれた電報がビスマルクに送られるが、ビスマルクはこれを噓にならない範囲でフランスが不当な要求をしたことが際立つよう電報を書き換える。この際立った内容を記事にしたことでプロイセンの国民はフランスに猛反発し、カトリック派の南ドイツ諸国の人々でさえプロイセンを支持し始めたのである。
そして、1870年、普仏戦争が勃発する。モルトケはオーストリアとの戦いと同じようにまたしても鉄道を活用し、スピードや輸送できる兵力を進化させ軍を変幻自在に移動させた。さらにモルトケは、最新鋭のクルップ砲を使いフランス軍を圧倒し、プロイセン軍はナポレオン3世を捕虜にすることに成功する。
こうした中、ビスマルクは南ドイツ諸国との交渉を続け、南ドイツの要請でドイツを統一し、プロイセン国王がドイツ皇帝となることを目指す形にこだわっていた。バイエルン国王のルートヴィヒ2世はプロイセンのドイツ統一を拒んでいた。ルートヴィヒ2世は激しい浪費癖があり、そこに目を付けたビスマルクは多額の資金援助をする。そして、ついに折れたルートヴィヒ2世はドイツ統一に同意することになる。こうしてビスマルクの援助を受けてルートヴィヒ2世が建設したのはドイツを代表する”ノイシュヴァンシュタイン城”である。
1871年、ドイツ皇帝の即位式を南ドイツ諸国の了承の下、ベルサイユ宮殿で決行する。しかし、この即位式の2か月前にヴィルヘルム1世はプロイセン国王にこだわっていたため、ドイツ皇帝になることを渋っていた。ビスマルクはこうした事情がある中、なんとか式場に国王を連れてくる。こうしてドイツを支配する皇帝が即位することとなり、ヨーロッパの大国に引けをとらないドイツ帝国が誕生したのである。
―ドイツ近代国家へ、ビスマルク死去
ビスマルクはドイツ帝国を誕生させた後、ドイツを近代国家にさせようと最高裁判所や中央銀行を設立する。貨幣をマルクに統一し、経済や法律の整備を行っていった。フランスに勝利し多額の賠償金を得たことでドイツは好景気となり工業化が進んでいった。ドイツは世界有数の工業大国となっていく。
ビスマルクは外交でも手腕を発揮する。ビスマルク体制と呼ばれるもので、オーストリア=ハンガリー、ロシア、イタリアなどと複雑な同盟を結ぶことで各国の勢力のバランスが整うような体制を築いたのである。
1873年、明治新政府の岩倉使節団(岩倉具視、大久保利通、伊藤博文、木戸孝允、山口尚芳)がビスマルクの下を訪れる。ここで、ビスマルクの助言を聞いた大久保利通は西郷隆盛に書簡で「ビスマルク、モルトケ大先生を生んだドイツこそ私が理想とする国である」を送っている。
そして、ビスマルクの息子ヘルベルトも政界に入り父を支えるようになっていく。
1888年、72歳の頃、ビスマルクの政治生命が揺らいでくる。皇帝ヴィルヘルム1世が90歳でこの世を去る。その3ヶ月後に即位したのが孫のヴィルヘルム2世である。ビスマルクとヴィルヘルム2世は44歳も歳が離れていた。この年の差が考え方が合わず、日に日に関係が悪化することに繋がる。
1890年、74歳の頃、皇帝に辞表を提出し、首相を辞任する。27年務めた首相生活が終わる。
1898年、ビスマルクは83歳で死去する。
●感想
ビスマルクが首相を辞任したあと、後にイギリス、フランス、ロシア三国間の協力体制が成立しました。これは、ビスマルクの後継者たちが予見しえなかった「外交革命」であり、ビスマルク体制はまったく崩壊してしまいました。こうしたことから、ビスマルクの外交戦術力は凄まじいものがあり、この外交戦術なくしては当時のドイツ帝国のヨーロッパにおける確固たる地位は築けなかったと思います。
また、意外な一面として愛妻家であったというところでした。やはり、家庭がしっかりしており健康でいられたからこそ政治家としての仕事に打ち込むことが出来たのではないかと思います。息子ヘルベルトに「仕事も食事も何事もほどほどにしなさい。特に酒には気を付けるように。」という言葉を残しており、若いころの彼を知っている人からすればどの口が言うんだとツッコみたくなると思いますが、やはり健康面に気を付けていたんだと感じました。これだけパワフルで外交面にも長けた政治家はなかなか出てくることは今後ないでしょう。
↓余談ですが、ビスマルクピザの由来はビスマルクが卵が大好きだからです。