白洲次郎
100の言葉~逆境を乗り越えるための心得~
一流の条件~仕事と人生の格を上げる40の心得~
『プリンシプルのない日本人へ』
本書の内容をざっくりまとめます。
(※ネタバレ含みます。)
最後に感想書きました。
●経歴
1902年兵庫に実業家の次男として生まれ、中学卒業後ケンブリッジ大学に留学、帰国後新聞記者、商社勤務を経て、敗戦を見越して百姓となる。その後、吉田茂首相に頼まれて終戦連絡中央事務局参与として日本国憲法成立に関与、その後防衛庁長官となり通商産業省を誕生させたのち、東北電力会長を務める。
●肩書き
貿易庁長官、吉田茂秘書官、東北電力会長、軽井沢ゴルフ倶楽部理事長
●白洲次郎の逆境を乗り越えるための心得
―交渉
・我々は戦争に負けたが、奴隷になったのではない。
・終戦後、食料が欠乏していた中で占領国のアメリカが飢え死にしないだけの食料をくれた事は公平に考えて日本人は忘れてはならない。
・GHQから手交されたマッカーサー草案に対し交渉しようと何度も赴き、憎い相手に頭を下げた。
⇨為政者の抵抗を歴史に刻んだ。
・戦後はこれまでの国内産業から輸出行政を中心に産業行政があるという考え方に改めなければならない。
・いかに大規模な電源開発をし、安定的な電力供給を確保するかが大切だ。
・サンフランシスコ講和条約調印での独立の回復も大事だが、沖縄や小笠原の返還、米軍基地の撤廃にもこだわった。
・朕、戦いを宜すと宣言した天皇にはご退位願うべきだと提言。
⇨誰であろうとも曖昧さを許さない。
・事なかれ主義、石橋を叩いて渡らん主義は官僚の極意かもしれんが、それをやられたんでは国民はたまらん。⇨政府のやることは後手後手でリスクをとろうとしないやり方を批判した。
・新憲法は占領軍によって強制されたものであると明示すべきだが、しかしその中でいいものはいいと率直に受け入れればよい。
―改革
・東北電力会長として、まず恩恵にあずかるべきは最も生活に影響を受ける地元の人たちであるべきと主張した。
・次郎は、私利私欲に端を発した行動で公私混同する輩や、保身にばかり走る人間を何よりも嫌っていた。
・使命が終わればやめるがよろしい。
・プリンシプルを持つことが大事だ。恥を知り、自らを律することの出来る人間でなくては、綺麗なお金の使い方は出来ない。
・1953年日本の経済事情は深刻化しており、責任のなすり合いをしている経営者たちの傾向を嘆いた。
⇨現実を直視することが大事。
・本当の国民の総意の新憲法が出来るのが当然であると考えた。
・ケンブリッジへの留学時代の頃、ある試験の答案に君自身の考えがひとつもないと返された。これにより、自分の頭で考えることの大切さを痛感した。
・困ってくるとすぐに補助金だ、割り当てだ、と政府に泣きつくような企業の姿勢について苦言を呈す。
ースピリッツ
・ちゃんとした英国人は、非常に淀みなくしゃべるような雄弁な人に対して反射的に疑惑を持つ傾向がある。
・貴族など特権を与えられたものは、それを社会に還元する責務がある。
・高所に立って、正しいと思うことを率直に言う。
・戦前、次郎は吉田茂らとともに日米開戦阻止に励んだが戦後率先して世代の責任を語っている。
・Be gentleman 正々堂々、1人でも意志を表明すべし。
・人から嫌われてこそ、きちんとした仕事が出来る。人に好かれるようではいけない。
・原理、原則すなわちプリンシプルがない外務省や政治家、経済人の言動にはうんざりである。
・無駄だとわかっていても言うべきことは言う勇気を持ちたいものである。
ー人付き合い
・人が困っているときは助けるもんだ。
⇨戦争中、食糧難時代、自分で収穫した農作物を友人達に届けた。
・孫に向けて言った言葉『東大にいけ。そして役人か銀行員になれ』
⇨東大や官僚というものの力を思い知り本音が出たのかもしれない。
・あなたのモットーとは?の答えに『死んだら腐る』
⇨人間も動物も植物も腐ることで土に返り、さらに作物を育てている。
・葬式無用、戒名不用が遺言書である。
ーこだわり
・『カントリー倶楽部は会員が楽しむためにある。そうでないものは帰ってもらう。』田中角栄が来た際に首相秘書に確認し、会員でないとわかると発した言葉とされる。
・社用の車で乗りつけたり、運転手を待たせてゴルフするなどもってのほかである。
・スキーに行ってもガツガツ滑るものではない。釣りやウィスキーを飲んだりゆっくりする。これも英国式のスキーの楽しみ方であるというスタンス。
・日本で最初にジーパンを履いた男とされている。
●白洲次郎の仕事と人生の格を上げる心得
ー行動
・『こういう際は拙速を尊びます。』近衛の依頼を受けて敗戦後、憲法改正草案を進める学者の佐々木に向けて次郎がかけた催促の言葉
・誰に対しても言うべきこと、本当のことを言う。それが常にブレることのない次郎のプリンシプルである。
・『ことは機先を制さなければの』次郎には、初対面の人にまず噛み付いて、相手の反応でその人間の器を量る悪い癖があった。
・GHQに対して齟齬があってはならないから、指示はすべて文書にして欲しいと要求し、従順ならざる日本人と呼ばれる。
・逆境にさらされても逃げない、状況が悪くても目をそらさず現実を直視する。
ー信条
・コンチクショウと奮いたつ心を持つ。人生で大切なのは、勝ち方ではなく負け方である。負けて折れてしまうのか。それとも悔しさを忘れずにエネルギーへと転嫁するか。
・日本ぐらい自分でものを考える奴が少ない国はない。
・どんな勢力にも人物にも、気兼ねをして自説を抑えたり、曲げたりするようなことは絶対しない。プリミティブ(素朴)な正義感が大事。
⇨これはイギリス留学中に紳士たるものを学んだからである。
・終戦2年前41歳で神奈川の鶴川村に隠居した。武相荘と呼んだ。
・英国紳士の美学を大学時代に留学中に出会ったロビンことロバートビングという友人から学んだ。
・大局にたって考える。1952年での言葉。
利己的なことを考える余地はないはずだ。そんなことも理解できなければ、政治家気取りなどやめてもらいたい。
ー品格
・男たるもの、お金の使い方にイヤシさがあってはならない。他意のある土産は受け取らない。
・英国貴族のジェントルマンシップに触発された。
・接待ゴルフが流行っていた時代、運転手を待たせてゴルフするやつはゴルフする資格はない。と言い放つ。
・分をわきまえた服装にする。ヘンリープールのスーツを買ったのは、それなりの年齢になってから。昭和天皇、吉田茂が誂えていた店で自分にはまだ早いと感じていた。
・カントリージェントルマン。地方に住み、中央の政治に目を光らせる。
ー趣味
・オイリーボーイとして、17歳から車に熱中。留学中はブガッティとベントレーに乗る。
・武相荘で友人達と酌み交わした酒もそうだが、別荘の軽井沢での酒もしかりロンドンのバーでのことも人間関係の機微が見える。
⇨次郎は酒を通して人間の機微も存分に味わった。
●感想
・まず、何よりカッコいい!顔もいいし背も高いしモデル体型で中身までジェントルマンという誰もが惹かれてしまう人物。
特にカッコいいと感じたのは、『困っているときは助けるもんだ』として、戦争中、食糧難時代、自分で収穫した農作物を友人達の家に行き玄関にこそっとおいて何も言わずに帰ったという逸話である。非常にクールで弱い人や困っている人には優しい一面だと思う。
・無駄だとわかっていても言うべきことは言う勇気を持つことは大事だと感じた。日本国憲法成立に対して決して妥協しない発言をする姿勢はいついかなる時も曲げない信念を持っている表れだと思う。
・誰に対しても言うべきこと、本当のことを言う。常にブレることのないプリンシプルを持ちたいと思った。あらゆる権力に屈しない、天皇にもきちんと物事を言う姿勢は誰もが参考にすべきだと思う。