【高橋是清】奴隷から総理大臣に!昭和経済を復活させた財政の神とは!?

教養/豆知識

現代の日本は30年近くデフレが続いております。

世界恐慌と重なって昭和初期に日本で発生した昭和恐慌もいわゆるデフレでした。

これを解決したのが”高橋是清”という人物になります。名前は聞いたことあるという人は多いのではないでしょうか。

是清は日本を3度救った人物になります。

1つは必死の戦費調達による日露戦争勝利、2つ目は第一次大戦後の金融危機終息、3つ目は時局匡救事業により世界恐慌によるピンチを世界最速で回避になります。

こうした高橋是清の功績は現代の日本も是非参考にすべきだと思います!

今回は明治から2次大戦前の昭和にかけて日本を救った高橋是清についてご紹介します!

 

●プロフィール
本名 高橋是清
生誕 1854-1936(81歳没)
出身 武蔵国江戸芝中門前町(現:東京都港区赤坂)
愛称 ダルマさん
その他 2.26事件にて暗殺される、50円札紙幣の肖像

 

●生涯
-地方に養子~アメリカ留学
1854年9月19日に幕府御用絵師の川村庄右衛門と女中のきんの子供として江戸で誕生する。
生後間もなく仙台藩の足軽であった高橋覚治の家に養子に出される。武家の子供として育てられた高橋是清(以下是清)の人生はここから変わっていくこととなる。
当時の仙台藩は洋学を盛んに取り入れていて若く才能がある者たちを選んで横浜で英語研修するよう命じており、その中に当時10歳だった是清も入っていた。
しかし、是清は素行が悪くいわゆる不良だったため、周りの評判は普段から最悪であった。仙台藩のお金で勉強に来てたのに酒と博打と遊びばかりやっていたのである。
そのため、仙台藩からアメリカへの留学行きの選抜で当初是清は外されていたほどだった。
しかし是清は向上心だけは人一倍あったため、色々と駆けずり回りなんとか選抜入りを果たし無事アメリカ留学にこぎつける。

 

-奴隷生活~日本帰国
1864年、当時14歳であった是清はまだ若輩者であったため横浜にいた米国貿易商ヴァン・リード氏に依頼し金銭面も含めてアメリカでの面倒を見てもらうことになる。
リード氏はアメリカの自分の実家で住み込みで勉強するといいと説明し、是清は渡米後はリード家で暮らすことになった。だが、リード家では留学生活とはかけ離れた暗くて辛い現実が待っていた。
留学生活が始まると思っていたはずが家事や農作業や雑用ばかりさせられ粗末な食事を床で食べさせられる生活が始まったのである。
不良気質であった是清は真面目にするはずもなく、しばらくするとリード家からオークランドのブラウン家にいくこととなるが、この時にある書面にサインをさせられた。なんとこの書面はリード家がブラウン家に是清を奴隷として売ることの承諾書だったのである。そんなこととは露知らずだった是清はサインをしてしまい是清の人生で最初のどん底である奴隷生活がスタートする。毎日牧場やブドウ園で朝早くから夜遅くまで働かされ、家事などの雑用を押し付けられ学校にも通わせてもらえないという日々が始まったのである。食事も当然粗末でブラウン家とは別で食べさせられるといったどう考えても奴隷扱いを受けていたのだが、是清は当初「アメリカでの留学は大変なんだなあ」と自分が奴隷になっていることを気づいていなかったのである。しかし、さすがにおかしいと気づき始め「約束と違うではないか」と憤慨し、ストライキを起こす。使えない奴隷の烙印を押され家をたらい回しにされるが、その度に是清は持ち前の根性と英語力で乗り切り、現地の同じような境遇の外国人やアメリカ人とも親交を深め「活きた英語力」を身に付けていく。
日本では明治維新が起きこのタイミングで是清は何としても帰国して活躍したいという強い想いがあった。是清は必死に学んだ英語と人脈により、かつて承諾書にサインをしてしまった奴隷契約の破棄についに成功し日本に無事帰国出来ることとなる。

-荒れた生活~特許局初代局長
帰国した是清は、留学中のサンフランシスコで知り合った森有礼(日本の教育政策の父)に勧められて文部省で働くこととなる。「活きた英語力」を身に付けた是清は英語教師として多くの生徒を指導し、その生徒の中には日本海海戦で活躍した秋山真之や俳句で有名な正岡子規もいた。しかし、是清は酒癖や女癖が相変わらず治らなかったので多額の借金を抱えて教師を辞職したり、芸者のヒモとなって酒に溺れた生活をしたり、大蔵省に入省するも上司と揉めて辞職したり、相場に手を出し大損して大金を失ったのでその借金返済のために翻訳の内職に励むなど荒れた生活を過ごしていく。
その後、是清は農商務省で活躍する機会がやってくる。当時の日本では特許や商標についてのルールが曖昧で西洋列強に追いつくためには法整備が必要であった。そのため、是清は商標登録制度や発明品の特許制度の整備を任され、日本の旧来の商習慣と西洋の制度を融合し現在の日本の特許や商標制度の根幹を作り特許局初代局長に就任することとなる。

 

-ペルー鉱山巨額詐欺被害~日銀副総裁
ようやく是清は安定した軌道に乗った生活を送れるかと思いきやまたして暗雲が立ち込める。農商務省次官だった前田正名から「南米ペルーの銀山開発で一儲け出来る投資話がある。どうかね?」という話があり、是清は3億円ほど投資し特許局局長を辞職してしまう。金に目がくらむ気質はここでも発揮されてしまう。ペルーの鉱山開発責任者として現地へ渡り莫大な富が埋まっているはずの鉱山へ到着したが、あれだけ持てはやされた鉱山は既に掘りつくされた廃坑で一銭も得られない状態だったのである。実はこの投資話は日本の金持ちを相手にした詐欺話であり、是清含め財政界の金持ちの出資者達はまんまと騙されたのだ。是清はこの契約を破棄して日本へ帰国し、自分の大邸宅を売却して貧相な借家暮らしとなることで損失を穴埋めする。まさかの無一文で無職となったが、なんとか再起を図ろうと農場経営や鉱山経営に手を出してみるも見事に全て失敗してしまう。そんな状況で途方に暮れていたところ、ペルー鉱山の話を持ち掛けてきた農商務省次官の前田正名が詐欺に巻き込んでしまった責任を感じ是清の就職先を見つけてくれることとなる。そこで新たな就職先として見つかったのが日本銀行本店新設工事の専務主任であり、この建設には英語教師の時代の教え子だった東京駅建設も手掛けた辰野金吾もいた。日銀本店建設は予定より大幅に遅れており、資材管理や発注が統制されておらずひどい状態だった。こんな状況を是清は今まで培った経験や能力で打破し、無事に工期通り進むようになる。この実績により是清は日銀で働くこととなる。日銀入行2年目に日銀支店の支店長に抜擢され、その後日銀の国債金融部門を担当する横浜正金銀行本店の支配人となる。是清の高い英語力と銀行マンとしての能力から選出されたのである。ここで見事に成果を出し横浜正金銀行の副頭取まで出世し、さらに政党内や日銀内でゴタゴタが起きていたことから是清は入行6年目に日銀副総裁に抜擢される。

-日露戦争の戦費調達~総理大臣
入行6年目にして日銀副総裁に抜擢された是清は日本を窮地から救う働きをする。これが日露戦争の”戦費調達”である。日露戦争をやり遂げるには当時の価格で軍費が約4億5千万円必要であったが、当時の日本は戦費が全然足らず日本国内だけではどうすることも出来なかった。そのため海外で借金いわゆる外債をして軍費を集めるしかなかったのである。4億5千万円の3分の1にあたる1億5千万円は外債で賄うこととなり、その1億5千万円のうちの5千万円は日銀でカバーできたが、残りの1億円を何とかしなければならない。そこで白羽の矢がたったのが是清である。英語が堪能で国際金融に詳しく度胸と行動力があり、難しい問題を引き受けてくれる者は彼しかいなかったのである。日本政府の期待を背負って是清は欧米に渡るが、ロシアには到底勝てないだろうと思われたためアメリカでは門前払いを受ける。今度はアメリカの次にイギリスに渡り交渉は非常に困難を極めるが、是清は「この戦争は自衛目的で日本は最後まで戦い抜くこと」「返済は関税収入を充てること」「南北戦争時に中立国が資金援助した前例がある」などと力説し、銀行が1億円の半分の5千万円を、そして残りの5千万円をユダヤ人実業家のヤコブ・シフを通じて集めることに成功する。ユダヤ人はロシアと敵対していたので、敵の敵は味方という構図で資金援助したのである。日露戦争で日本がロシアのバルチック艦隊を倒し完全勝利した背景には是清が海外で必死に資金調達した苦労があった。是清は後にこの時の経験について『不運な時ほど自分自身を信じろ。』と残している。奴隷になろうとも、詐欺で騙され無一文になろうとも決して人生を諦めることはなかった是清の名言である。この資金調達の成功から是清は日本銀行総裁に任命され、その後大蔵大臣に就任し、さらに当時の首相である原敬暗殺によりついに総理大臣にまで上り詰める。

-政界引退~金融危機の混乱終息
是清はその後政界を引退する。日本は1914年に勃発した第一次世界大戦により好景気だったが、1920年頃には反動で戦後不況となり企業や銀行は不良債権を抱え始める。さらに1923年に発生した関東大震災によって乱発した震災手形が膨大な不良債権として顕在化し、地方銀行の経営が悪化し経済が先行き不安になる。そのような中、当時の大蔵大臣である片岡直温が「東京渡辺銀行が破綻」と失言し、これにより中小銀行などで預金の取り付け騒ぎが起き、当時の巨大商社だった鈴木商店が倒産するなどして国民の金融不安が大爆発する。若槻内閣は責任をとって総辞職し、続く田中義一首相が組閣する際に財界の第一人者である当時73歳の是清が大蔵大臣に任命されることとなる。是清はすでに衰弱していたが、この状況を放っておけぬということで再び大蔵大臣に復帰することとなる。この国民の金融不安といった混乱に対して是清は今までにない異次元の緊急金融政策といった大胆な対策を行う。具体的には「全銀行を2日間休業させる」「3週間のモラトリアムを発動し金銭債務の支払い猶予期間を設ける」といった政策を行い、こうすることで銀行からお金を動かせないようにして預金の取り付け騒ぎを終息させようとした。是清はなんと大蔵大臣就任からたったの3日でこれほどの対策を講じたのである。2日間の休業明けの銀行窓口には、大量の札束が高く積まれており、これをみた国民は安心し取り付け騒ぎは沈静化した。しかし、ここからすごいのが高橋是清である。なんと、この札束は全て偽物で片面しか印刷していない不完全な紙幣だったのである。この片面印刷により倍速化して2日間で大量の紙幣を生むことが出来たのである。こうした是清の手腕により、44日間で国内の金融危機を切り抜けることに成功したのである。

-時局匡救事業~2.26事件により没
金融危機を終息させた是清は短期間で大蔵大臣を辞めて再び隠居する。金融危機終息から2年後の1931年、是清76歳の時に世界恐慌に端を発する危機が日本を襲うことになる。またしても是清の力が必要となり、今度は犬養毅首相に請われてまたしても大蔵大臣に就任し、「金輸出再禁止」「時局匡救事業(景気対策を目的とする公共事業)」「日銀引受による政府支出の増額」を行い、世界で一早く日本経済を立て直すことに成功する。また1934年にはデフレ脱却後、これ以上のインフレを抑えるべく今まで引き上げていた軍事予算を削減しようとした。これは、財政上の信用を維持することが最も重要であり、国防のみに偏重し悪性のインフレを引き起こして日本の財政の信用を破壊することがあってはならないという是清の考えからであった。しかし、これに対して陸海軍は猛烈に反発したため要求額の1/4ではあるが何とか財政を工面して予算をつけることで財政と国防の折り合いをつけたのである。何とか折り合いをつけたと思った是清であるが、軍部は財政操作の絶妙なバランス感覚が理解できず恨みを買うことになってしまう。軍部は「軍事費を削減する高橋是清は国賊だ!」と日露戦争の戦費調達であれだけ貢献した男に対してこうした批判の言葉を言い放ち、さらに短絡的な思考である青年将校達が赤坂にある是清の自宅に押し入り銃で6発胸を撃ち是清は殺害されてしまう。

 

●感想
高橋是清という人物について、正直私も名前は聞いたことあるぐらいであまり詳しく知りませんでした。しかし、こうして生涯や功績を振り返ると非常に偉大な人物であり、現代日本にも是非いて欲しい存在だなあと思いました。アメリカのルーズヴェルト大統領が行ったニューディール政策より前に時局匡救事業という同じように景気対策を目的とする公共事業を行ったことはもっと評価されるべきだと思います。高橋是清は『どんな失敗しても窮地に陥っても、いつか強運が向いてくると気楽に構え、前向きに努力した』という言葉を残しております。自己啓発本に書かれていればあまりピンとこないことばかもしれませんが、この人が言った言葉となるとものすごく感銘を受けます。自分は運を持っている。改めて前向きにそう思い込み色々なことにチャレンジしていこうと思います。

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