世界3大財閥の1つで、世界の石油を牛耳っていたアメリカの超大財閥ロックフェラー家。”資本主義の悪魔”と言われ、あのヘレン・ケラーも”資本主義の怪物”と評しています。そんなロックフェラー家について簡単に紹介していきたいと思います!
この記事は、NHK「ザ・プロファイラー」を参考に執筆しております。
●世界3大財閥とは
日本3大財閥と言えば、みなさんきっとご存知、三菱、三井、住友になりますが世界3大財閥と言えば以下の3つになります。
・ロックフェラー(アメリカ) 石油 不動産
・モルガン(アメリカ) 金融 鉄道
・ロスチャイルド(ヨーロッパ) 金融 鉄道
JPモルガンはジョン・ピアポント・モルガンが由来となります。
ロックフェラー家については以下に解説していきます。
●ロックフェラー家とは
ニューヨークのロックフェラー・センターでのクリスマスツリー点灯式は有名なので一度はニュースで見たことがある人も多いかもしれません。
ロックフェラー・センターはまさにロックフェラー家の象徴と言える存在です。
ロックフェラー家は金融業から保険業、自動車産業、軍事産業など200以上の大企業を傘下に収めたアメリカを代表する超大財閥です。一族から合衆国副大統領も輩出するなど政治的な影響力も大きく「アメリカの影の支配者」と言われております。
ロックフェラー家のすごいところは、他の大貴族と違いその基盤をわずか一代で築いたところです。そんなロックフェラー家の歴史を以下に解説していきます。
●大財閥への階段
1839年、ニューヨーク州にてジョン・D・ロックフェラーが生まれます。父ウィリアムは行商人であり、効き目が怪しい薬を言葉巧みに売り歩いていて、女癖も悪く、いつも一山あててやろうという考えを持っており、とても裕福と言える家庭ではありませんでした。
ロックフェラー少年は、そんな父親を反面教師として、家事を手伝い、金を稼ぎ家計を助けていました。そして敬虔なキリスト教徒の母からは“勤勉”、”倹約”、”質素”を学びました。16歳でオハイオ州のクリーブランドに引っ越したロックフェラーは、商業専門学校で簿記を学びます。やがて農産物取引会社に就職し、帳簿係としてキャリアをスタートすることになります。輸送費の計算が業務の中にあり、これが後に彼のキャリアに大きく役に立つことになります。この仕事の経験から、どんなに小さな数字でも事実でも非常に重視するようになったのでした。また、小金を扱うビジネスに満足していませんでした。
1859年の20歳の頃、10歳年上の友人と資本金4000ドルで農産物を取引する会社を設立することになります。若くして経営者の資質を磨き、世の中の動きには常にアンテナを張っていました。そんな中、同年ペンシルベニア州で原油が掘りだされたというニュースが入ってきます。鉄道員のエドウィン・ドレークが世界初となる機械を使った原油の採掘に成功し、アメリカでも大量の原油が掘り出されるようになり、灯油が鯨油に変わる燃料になると注目され始めていました。(ちなみに、1853年のペリー来航の目的の1つは、鯨油の獲得のために捕鯨の寄港地が欲しいためだったそうです。)
ロックフェラーは、これからの時代は石油が主要なエネルギーになると確信し、リスクを負わず儲ける方法を考え始めました。そして、ニュースを聞いたたった4年後、原油を精製するための小さな精製所を設立します。原油の採掘ではなく、原油の品質を高めることが大きなビジネスになると考えたのです。こうして、23歳でベンチャー企業の経営者となったのでした。当時のアメリカは南北戦争の真っ只中。北部を中心に産業の工業化がどんどん進んでおり、これが追い風となり、石油の需要が高まると、ロックフェラーは石油の精製そして輸送も手掛けるようになります。
そんなロックフェラーにとって唯一の楽しみは日曜日に協会に通うことであり、働き始めた頃から収入の1/3を教会や慈善団体に寄付していました。そして、1/3は貯蓄と決めていたようです。真面目に稼いで出来る限り手に入れ、出来る限り与えることは宗教的義務だと考えていたのです。
●世界一の工業国の原動力
ロックフェラーは、ここからどんどん会社の規模を拡大していきます。
彼の経営手法は、競争相手を叩き潰すあるいは競争相手を次々と買収していくというものでした。石油業界は、競争が激しく急成長が困難な中、石油事業に乗り気でなかった共同経営者にわざと仲を悪くしてパートナーシップを解消したり、鉄道会社と秘密裏に交渉を行い賄賂を受け取ったりしていました。鉄道会社に石油のドラム缶を大量に提供することで、自社の運賃の値下げに加え他社の運賃を引き上げるという密約を結んでいたのです。ロックフェラーは、まさに手段を選ばないしたたかさで確実にのし上がっていきました。彼は、倹約家を通り越し徹底的なケチであったと言われています。
日頃からコストダウンを徹底させ、また大富豪になってからも、毎日の昼食は安いレストランで済ませていたようです。また、酒もタバコもやらずトランプをすることも自ら禁止していました。
1870年、ロックフェラーは弟ウィリアムとともにスタンダード・オイル社を設立し、全米で精製される石油の1割を手がけるようになります。そして次々と全米の石油精製会社を傘下におさめていき、10年で全米の石油関連産業の9割を独占するようになります。競争相手を倒産に追い込んだり、絶対買収を仕掛けたりといった強引な手段をとったため、同業者からは不満の声が大きくなっていきました。
こうした中、1872年、鉄道会社との密約が発覚し、窮地に立たされることになります。そして、生産者が油田を封鎖し、ストライキを起こす事態となります。こうして鉄道会社との密約は破棄されたのです。しかし、ロックフェラーはこれを逆手にとりました。ストライキが発生し、原油の生産が出来なくなったことで苦しんでいる同業の精製会社が出てくるのを見て、銀行の役員を買収し、同業他社への融資を止めさせて金に困った同業他社を次々と買収するという荒技に出たのです。この行為により、強欲な悪人としてアメリカ中に知れ渡ったのでした。
スタンダード・オイル社は世界でも類を見ないほどの巨大企業となりました。1908年にフォード社が自動車の大量生産に成功すると、ガソリンの需要が急激に高まりました。そして、1914年に第1次世界大戦が起こると、飛行機や戦車の燃料に使われることになったのです。ロックフェラーは、推定資産9億ドル、世界一の大富豪となります。(アメリカの国家予算は当時7億ドル)
スタンダード・オイル社の存在は、アメリカが世界一の工業国となる原動力となったのです。
孫のデイビッドは彼は生涯の半分を嫌われ者として過ごしたと語っているようです。
その後もロックフェラーは、銀行業、不動産業といった事業を拡大していき本拠地をオハイオからニューヨークに移したのです。
●慈善事業
1897年、58歳になったロックフェラーは、一線からの引退を決意します。
そのまま隠居生活になるのではなく、心身深かったロックフェラーは、1/10を教会への献金を行いました。彼の寄付によって建てられた教会は4000以上と言われております。富豪になってからは、献金を計算するための担当部署に10名以上いたと言われています。彼が特に力を入れて支援したのは、教育と医学の分野でした。1890年にはシカゴ大学を設立し、1901年にロックフェラー医学研究所を設立します。彼自身が長生きしたいという願いがあったため、医学には軒並みならぬ関心があったようです。この研究所には、あの野口英世も在籍しており、初代所長のサイモンは後に野口英世の才能を見出した人物です。ロックフェラー医学研究所が設立されていなければ、野口英世の功績はなかったかもしれません。ロックフェラー医学研究所は、1965年にロックフェラー大学になり現在までに25人のノーベル賞受賞者を輩出しております。慈善事業として、多額の寄付を行ったことで、彼の子供達は莫大な相続税を支払わずに済みました。こうしたことも、全て彼のしたたかさゆえかもしれません。そして、1937年、97歳でロックフェラーはこの世を去ります。
●第2世代長男ジュニア
ここでロックフェラーの長男ジュニアの系譜については簡単に解説します。
1897年、23歳の時、長男ジュニアは、一族の資産を管理・運営する会社に入社します。そして株式投資に乗り出しますが、100万ドルもの損失を出してしまいます。自分には父親のような才覚がないと自問自答し悩んでいました。そして、27歳の時、南部の黒人の教育現場を調査する調査団に参加することになります。この経験からジュニアは29歳の時、黒人の教育現場を改善する一般教育財団を設立したのです。7年間で800の高校を設立し、南部の環境を整えました。また、売春や麻薬の撲滅を行なったのです。
39歳の時にロックフェラー財団の設立します。そして、世界恐慌時、1億ドルもの損失を出しながらも45歳の時にロックフェラーセンターの建設を行い、7万人以上に働く場を提供したのです。この長男ジュニアの行いに、人々は感謝の気持ちを示そうとポケットマネーを出し合い、クリスマスツリーを中庭に作ったのでした。以来ロックフェラーセンター前にはクリスマスツリーが飾られることになったのです。
●第3世代
ジュニアは、2人の女の子と4人の男の子合わせて6人の子供を授かりました。子供達には、”義務”と”責任”を教えました。しかし、長女のバブスは思春期になると、飲酒や喫煙、賭け事にも手を出すようになります。一方、男兄弟4人はザ・ブラザーズと呼ばれ、次男ネルソンは社交的で自信家でした。野心家ネルソンの目標は、アメリカ大統領で南米で石油事業に関わっていた経験を活かし、南米政策の専門家として、政界入りすることになります。
1959年、51歳の時にニューヨーク州知事に就任することになり、1974年、66歳の時に副大統領に就任することになります。
次の第4世代はロックフェラー家の重荷が大きくのしかかることになっていき、絆が弱くなっているみたいですが、慈善事業がなんとか一族をつなぎとめる重要な位置づけとなっているようです。
●感想
個人的には、ロックフェラーの長男ジュニアがカッコよすぎだと思います。ロックフェラー家の名前が現在でも残っているのは、ある意味ジュニアのおかげではないでしょうか。家が超金持ちの家庭であればどうせ絵に描いたようにあぐらをかいたドラ息子なんだろうと思ってしまいますが、全然そんなことはありません。むしろ当時の黒人差別の問題を解決しようという野心家だったのです。彼は父とは違い、投資の才能はなかったかもしれませんが、自分が出来る活路を見出し、ロックフェラーの息子という大変大きなプレッシャーがある中、腐らずに我が道を進んだのです。あのロックフェラーセンターのクリスマスツリーができた経緯を聞くと相当一般の市民や労働者から好感を持たれていたのではないでしょうか。アメリカの政治を裏で操っているなど都市伝説のような噂が今でもあるロックフェラー家について今後も目が離せません。
~超名門貴族シリーズ~
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➡【超名門貴族②】ヨーロッパを代表する財界一族ロスチャイルド家の歴史
➡【超名門貴族③】ヨーロッパの有名芸術家を支えた一族メディチ家の歴史
➡【超名門貴族⑤】アメリカ経済を動かすモルガン家の歴史