【絶望的愚将】今振り返る!愚策インパール作戦を指揮した牟田口廉也とは!?

教養/豆知識

インパール作戦を聞いたことがあるもしくは知っているという人は少なからずいると思います。太平洋戦争中に行われた作戦で、史上最悪の作戦と言われているものになります。
そして、その作戦を指揮したのは”絶望的愚将“と呼ばれる牟田口廉也という人物になります。
そんなインパール作戦と牟田口廉也について簡単に解説したいと思います!過去の過ちだと風化させるのではなく、今現在も同じような過ちを繰り返す可能性が十分にあることを肝に銘じる必要があると思い、この記事を掲載しました!

 

●プロフィール
名前 牟田口廉也(絶望的愚将)
1888年 佐賀県(旧肥前藩)生まれ
軍国主義 陸軍大学校卒業のエリートコース
新政府に変わってからなので薩摩藩、長州藩、肥前藩、土佐藩出身が出世株の当時旧肥前藩出身なので生まれ申し分なかった。
陸軍大学校卒業後陸軍省参謀本部に勤務

 

●マレー作戦、インパール作戦
太平洋戦争の中、マレー作戦とインパール作戦を実行する。
・マレー作戦(目標:シンガポール攻略)
マレー半島から南下する作戦に成功し、難航不落と呼ばれたシンガポールを10日間で攻略する。このマレー作戦に参加していたのが、牟田口廉也であり、マレー作戦に成功したことでのちにビルマ方面で活動する陸軍部隊の司令官を任されることとなる人物である。

・インパール作戦(目標:インド攻略)
蒋介石が名前の由来である援蒋ルートを断ち切るという当初の作戦から牟田口は、いっそのこと、もっと奥にある敵の拠点までせめていって占領しようという方針を打ち出した。これがインパール作戦であり、インドにあるイギリス軍の拠点インパールを攻略するためにたてられた作戦である。そしてこのインパール作戦は”史上最悪の作戦“と言われている。
牟田口は政府の意見を聞かず、無理を言って5万人の兵を投入し、1944年3月にインパール作戦を実行する。
北からはヒマラヤ山脈を越えてインドに侵略しなければならないので無理と考え、東側のビルマ方面、現在のミャンマーからインドの北東部インパールを攻略しようとする。
しかし、このインパールを攻略するには、ヒマラヤほどではないが、2000m級の山々とジャングルを超えなければならず決して簡単なルートではなかった。
無謀な作戦に陸軍上層部は反対するが、全く聞く耳を持たず実行され、軍需品、食糧の補給を全くされない状況の中、兵士達は戦うことを余儀なくされた。

以下に牟田口が指揮したヤバい作戦について解説します!!

 

●ヤバイ戦略
✅ジンギスカン作戦
雨季で困った時に、荷物を家畜に運ばせて、必要であれば殺して食べると言う作戦を立てる。
当初日本は、コヒマを陥落することに成功するが、インパールの攻略は難航していた。いわゆる膠着状態であった。
物資については、引き連れた家畜の大半が川に流されたと同時に失った。なんと、牟田口はインパールまでのルートにある川を全く考えていなかったのである。
家畜達は戦争に必要な食糧や物資を背負っていたため、流されたことで大量の食糧や物資を失った。
また、イギリス軍の空爆により、大量の兵士が亡くなり、また爆薬の音に家畜達は散り散りに逃げていった。
武器を失った日本軍は1日に打つ大砲は2発までで、近くの敵には石を投げ戦った。一方、イギリス軍は機関銃などの最新兵器で完全装備されていた。
牟田口は、山奥に入ってからは戦闘機は必要ないからと航空部隊に断っていたが、この理由もよく分かっていない。一方、イギリス軍は、空から物資を落としていた。
こうして2万人以上の餓死者が出て、病死者、自殺者も大量に出る。
このような中、日本の兵士は牟田口に物資を要求するが、全く聞く耳を持つことはなかった。

✅敵から奪えと発言
これは、物資を依頼した兵士達への言葉である。
野草でも、カエルでも蛇でも食べれるものは何でも食べろ!何でも食べて飢えを凌げ!」と言う始末であった。
銃がない、兵器がない、食うものがないは戦いを止める理由にならない!日本は神州である。神々が守ってくださる。」と撤退の命令は断固として出さなかった。
我々が戦っていたのは牟田口の無能であると現場の兵士は漏らしていた。
牟田口の指令を聞かずに兵士達は勝手な行動をするようになる。そしてついに大事件となる。

 

●コヒマからの撤退
命令なしの行動はご法度であるが、コヒマからの後退命令を、現場の指揮官の独断で発令されることとなる。牟田口はこうした自殺行為と言える身を捨てた現場の指揮官の行動を鑑みることなく、作戦の中止を提言した指揮官を片っ端から更迭していった。
現場で指揮をとっていた指揮官が居なくなってしまい、前線部隊は大混乱となる。しかし、牟田口と牟田口の上司は、敗戦濃厚ムードであったにもかかわらず作戦中止はしたくない!という理由から中止しなかった。そして、作戦開始から4ヶ月後になってようやく撤退命令が出されたのである。

 

●インパール作戦の結果
牟田口は、敗色濃厚になると一目散に日本に帰国し、帰国の際船に乗せたのは負傷した兵ではなく、芸者や酒であった。
そして、日本軍の退却路は死体の山となっていたことから”白骨街道“と呼ばれた。
9万人参加したインパール作戦で戦地から戻ったのはわずかに1万人程度であった。戦死者が2万5000人、餓死や病死者は3万人を超えていると言われている。
牟田口は結局何のお咎めもなく、死ぬまで兵士達への謝罪の言葉はなかった。
あげく、インパール作戦については部下の無能さが原因と語っていた。
死後、遺言で自分が悪くないことをかいたパンフレットを参列者に配布。

 

●インパール作戦失敗の原因
失敗の原因は以下2つである。
①最大の理由である補給の軽視
日露戦争、第一次世界大戦から大量に弾を発射出来る機関銃や高性能の大砲が使われだしたことで、戦争によって使われる弾や弾薬の量が桁違いに増えた。そのため、近代戦においては、後方からの補給をしっかりと確立させることが非常に重要であるが、全く支給されなかった。軽視した理由は、マレー半島の成功体験からである。わずか2ヶ月でマレー半島全域を占領した大成功の作戦でり、補給軽視でも成功した例である。当時、マレー半島には多くの原住民がおり、原住民達はイギリスの統治に不満を持っていた。そのような中、日本軍に協力的で村で食糧を調達していた。そして、インパール作戦のように難航せず、順調に進んでいったのである。そしてシンガポールでイギリス軍を降伏させることになる。このマレー作戦に参加していた牟田口は、勝ち続ければ食糧を手にすることが出来るという実体験から愚かな作戦を立案することになったのである。

②牟田口という人物の問題
牟田口という人柄を表した言葉に、牟田口閣下の好きなものに、1に勲章、2に女、3にジャーナリストというものがある。勲章を貰ったり、新聞記者に自分の功績を語るのが大好きであった。牟田口の功績に対して執着する性格がインパール作戦の悲劇を招いたと言える。インパール作戦は元々小規模の予定であった。大きな部隊で大きな成果をあげたいという考えが悲劇を招いた。こうした性分が撤退命令を遅らせて大量の兵士を死に至らすことになる。
現地の兵士の言葉に日本軍の敵は、1に味方の司令官、2に病気、3に飢餓、4にイギリス軍と言っていたそうである。

 

●感想
インパール作戦を振り返ることで、今何か同じようなことが起きてないかと思いました。面倒なことは全て現場に任せる。責任の押し付けあい。決断の遅さ。そう!全て現在のコロナに対する政府の取り組みと似ていると思います。Go To キャンペーンと感染拡大には関連がないと決断を遅らせる政府の見解、そして結局遅れてGo Toキャンペーンを中断しました。結局、1番困るのは現場でその人達のことを全然考えられていないのは、インパール作戦と同じなのではないでしょうか。今一度、このコロナ禍で最大の敵は無能な味方(政府)と言われないように国民をリードしていって欲しいと思います!

タイトルとURLをコピーしました