【空海】弘法大師はまだ生きている!?真言密教に捧げた人生とは!?

教養/豆知識

「弘法にも筆の誤り」という言葉を誰しも1回は聞いたことがあるのではないでしょうか。
弘法大師のような書道の名人でも書き損じをすることがあるという意味で、猿も木から落ちると同じような意味になります。
この弘法大師とは空海のことであり、この人物の名前は歴史の授業で耳にしたことがあると思います。
今回はこの空海の生涯についてざっくり述べていきたいと思います!!
最澄についてはこちらをご確認下さい!

 

●プロフィール
名前 空海(幼少期の名前:佐伯真魚)
別名 弘法大師
出世 774-835
出身 讃岐国(現在の香川県)
北海道を除く日本各地に数々の伝説を残す
仏教を学びに唐に留学し、日本に真言密教を広める
真言密教は空海によって開かれた大乗仏教の宗派で日本仏教の1つであり、唐で師匠である恵果から学んだ密教が基盤
密教とはお釈迦様などが民衆の救済の為に行った秘密の教えである

 

●空海の生涯
-幼少期~法名誕生
774年、空海は讃岐国にて豪族の父親の元に生まれる。豪族とは地方に住んでいる貴族のことであり、幼少期の名前は佐伯真魚である。同年の774年に亡くなった中国密教の基礎を作り、四大訳家の1人として多大な功績を残した不空(705-774)の生まれ変わりだと言われている。
母親が懐妊したときにインドの聖人がお腹に入る夢を見て生まれてくる時も合掌して出てきたと言われている。空海は15歳の時に母親の叔父さんに論語、孝経、史伝、文章を学ぶ。叔父さんは阿刀大足といい当時の天皇陛下の息子の家庭教師をしていた人物である。空海はその阿刀大足を頼り平城京(現在の奈良県)に上京し、官僚を目指して大学に行く。
しかし、官僚を目指していた空海は大学をたったの1年で辞めてしまう。親は猛反対していたが、三教指帰(24歳の時に執筆した出家宣言の書)という書を書いて親に大学を辞めて出家しお坊さんになることを納得させる。実際には何歳で出家したのかは不明である。
吉野の山などで修業に励み、この時密教の教えの”大日経”に出会う。他にも中国語、梵字なども勉強していたと言われている。ここからさらに修業は過激なものとなり、虚空蔵求聞持法という書物を50~100日で100万回唱えるといった修行を行い、最終的に虚空蔵菩薩の化身が口の中に飛び込んできて悟りを開く。その修行中に精神的、肉体的に追い詰められて目に見えたものが空と海だったので自分の名前を空海という法名にしたとされる。

-遣唐使として長安へ
その後、空海は遣唐使として唐に渡ることとなる。当時の遣唐使は大変な費用が必要なので国のお金で行くしか手段がなかったが、空海は自腹で向かう。諸説あるが、スポンサーがたくさんいたおかげで費用が集まり唐に行くことが出来たとのことで、空海の非常に人たらしな部分が発揮されたエピソードといえる。
また、当時一般の僧侶である空海が唐に行けたのは、阿刀大足が口添えしてくれたおかげであり、空海は運の良さも持っていたのである。
遣唐使は4隻の船で出発したが、唐に辿り着いたのは2隻のみであった。辿り着いたこの2隻のうちの1隻に空海が乗っており、もう1隻には最澄が乗っていた。最澄は国に認められてお金を出してもらって唐に行くぐらい優れた僧侶であった。この2人を乗せた2隻だけ残ったのは、まさに仏様の力と呼べるかもしれない。空海は唐に辿り着いたが、途中の悪天候に見舞われ航路を大きく外れ本来の目的地から南に逸れた福州長渓県赤岸鎮に着くこととなる。そこで海賊の疑惑をかけられ50日足止めされてしまう。
こうした事態になったが、空海は福州の長官に嘆願書を書き、当時の中国の都である長安に入れるように空海個人の名前で長安入京留学嘆願書を提出したのである。当然中国語を完全にマスターしていないと出来ない芸当であり、また空海の理路整然とした文章と優れた筆跡は福州の長官に認められ長安に無事入京出来ることとなる。

-恵果和尚に師事~帰国
空海はまず長安の般若三蔵に師事して密教に必要な梵語に磨きをかけていく。その上で必要な経本や新訳経典を与えられており、正確な期間は不明だが半年から1年ほどの期間でマスターしたと言われている。
そして、空海は密教の第7祖である恵果和尚に師事することになるが、恵果和尚は空海を一目見て不空の生まれ変わりだと思ったという驚きの逸話がある。恵果和尚は空海の実力を認めて空海に対して奥義を伝授する。
5月に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受ける。これらは全部仏様の教えで曼荼羅図に書いてあるものである。8月には阿闍梨となり、僧侶の中でも師範や手本になる人に与えられる称号であり空海はこの時に遍照金剛の名前をもらうこととなる。
遍照金剛とは大日如来のことであり、大日如来とは宇宙の真理を現し宇宙そのものを指し、また、すべての命あるものは大日如来から生まれたとされ釈迦如来も含めて他の仏は大日如来の化身と考えられている。空海はこの称号となったことがよほど嬉しかったのか縁のある人物を500人ほど招いて食事会をしたというエピソードがある。
その後も空海は曼荼羅や法具の作成や経典の写書をしていき恵果和尚から色々法具を譲り受けて日本に持ち帰る。恵果和尚が亡くなると空海が全弟子を代表して碑文を起草する。その後、空海は土木学、薬学を学び色々な経典を集めたりしていった。こうして2年間様々なことを学んだ空海は帰国することとなる。本来であれば20年間滞在することとなっていたが、たまたま臨時便の船が来て早く日本に帰ることが出来たのである。もしこの船を逃していれば日本に帰れたのは10数年後になっていたという。帰りの船も悪天候に見舞われるが運良く長崎の五島列島に寄港する。五島列島に虚空蔵菩薩があると知り祈願したところ朝なのに明星の光が現れそれによりそのお寺は明星院という名前になったというエピソードがある。

-嵯峨天皇からの信頼、数々の伝説
空海は予定よりも早く帰国しすぎたため2年間は都に戻られずその間は福岡県の大宰府に滞在しお寺を建立したりなどしていた。2年が経ちようやく都に入れる様になるが、この時に手伝ってくれたのが最澄である。この時は最澄は空海に弟子入りしていた時期で仲は良好であったが、最終的に最澄の弟子が空海の弟子に鞍替えしたことで不仲となってしまう。
空海はパトロンとして嵯峨天皇という強力な人物を味方につけ上下関係なく友達のような交流をしていく。嵯峨天皇はまず薬子の変(平安初期の朝廷内部の政変)の鎮護国家の大祈願を空海に頼む。国民の不安を解消するという大役を空海に頼んだのである。空海の真言密教のお経は悪霊を祓う呪術のような効果もあったとされる。
ここで大役を果たした空海は嵯峨天皇の信頼を得ることとなる。嵯峨天皇は唐の文献など大変興味があり、空海から教えてもらっていた。空海は天皇から認められ新しい仏教を広めるお墨付きをもらったことで信者を増やしていったことも1つ大きな要素としてあるが、唐から帰ってきた時は親戚や身近な人を弟子に取って広めていきその弟子達が全国に空海の書いた経典などを布教していったことで信者を次々と増やしていったのである。そして信者達から少しずつお金を寄付してもらい高野山に修行の場を作ることになる。
高野山を選んだ理由は、1つは当時の高野山は何もない土地であり心身ともに鍛え生きている間に悟りを開ける場所を目指そうとしたこと。あとは水銀が取れる場所であり当時は不老不死の薬と信じられていたことやお寺とかを赤く塗る為の原料に使われていたという場所であったことも高野山を選んだ1つの理由とされている。他にも空海が果たした業績として、当時貴族しか教育を受けられなかった環境を改善して一般庶民にも教育を受けられる学校を作ったことがあげられる。あとは唐で覚えた土木作業の技術を活かして讃岐国の満濃池を修復したり、日本各地に温泉を開湯していったなどがある。また、讃岐うどんも空海が唐から持ち帰ってきた説もあるなど空海には数えきれないほど様々な功績を残している。

-東寺の献上、空海は今も生きている
そして空海は50歳の時、嵯峨天皇から東寺を献上される。東寺は国立のお寺で日本初の密教のお寺である。空海はこの東寺を国や鎮護国家や布教の為のものにし、高野山の方は修行の為のお寺というように役割を分けたのである。
晩年空海は自分の死期が近いと分かり、自分が死ぬ日にちや時間も周囲に言っていたようである。そして、最後の最後に厳しい修行をして高野山の奥に入定する。入定とは、瞑想して生きたまま仏になることである。56億7000万年後に釈迦の弟子である弥勒菩薩に付き従い、またこの世に現れるということで今も空海の世話係がいて1日2回食事を空海がいるとされる部屋に持って行っている。
空海が広めた真言宗の元となる密教は師から弟子へと大日如来の究極の教えが伝えられる厳格なルールがあり、空海の教えは生きている間に完成したので何千年も続いている。一方、最澄の教えは今も残っているが、宗派はバラバラに枝分かれしている。

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