【玄奘三蔵】最強の探究心を持つ男!西遊記のモデル三蔵法師とは!?

教養/豆知識

西遊記や三蔵法師を聞いたことがある人はきっと多いのではないでしょうか。
西遊記は孫悟空、沙悟浄、猪八戒や三蔵法師といったキャラクターが出てくることでおなじみですよね。2006年のテレビドラマで孫悟空役を香取慎吾さんが演じたことでも知っている方は多いかと思います。三蔵法師が3人の弟子を従えて天竺まで行くというストーリーですが、この三蔵法師という人物は実際に実存したのはご存じでしょうか。
時代は今からおよそ1400年前、現在の中国である洛陽の近くで生まれた玄奘という人物が三蔵法師のモデルになります。
今回はこの玄奘について簡単にご紹介させて頂きたいと思います!!

 

●プロフィール
俗名 陳褘
戒名 玄奘
出世 602-664 隋の末に誕生
出生 洛陽の近く
インド往復(地球1周半)、仏教翻訳家、大唐西域記著者
・西遊記のモデル
・三蔵法師の名で知られる
・色即是空、空即是色
・仏教学びにインド往復17年
・中国に唯識論を持ち帰り翻訳すること20年
・7世紀インドへの求法僧の代表する存在

●玄奘誕生あたりの中国の様子
①隋の文帝、楊堅が隋を破壊
②文帝は儒教に依存していた。仏教の力にも依存していた。
③601年、仏法を重んじその功徳で国家の統治を行うことを宣言した
④仏教国家が誕生
⑤文帝は大帝国の統一を目指して全てを包容する
⑥仏教は唐の時代も重宝される

 

●玄奘誕生、インドへの旅、帰国し翻訳
ー玄奘誕生
602年、隋の時代、洛陽近くにて陳褘(戒名 玄奘)は誕生する。父親は引退した地方長官であった。

615年、13歳の時に優れた才能が評価されて正式な僧侶となる。その後、隋が統治能力を失い、天下が騒然としていた頃、既に戒名を玄奘と名乗り、教学研究に没頭していた。そして、玄奘の名声は長安中に拡がっていった。

しかし、玄奘が各地の高僧の話を聞いても、経典を調べてみても、矛盾があり玄奘の疑問と探究心は深まっていく。

そこで、玄奘はインドに赴いて師について疑問を正し、経典の原典(唯識の哲学書)を持ち帰り、諸々の疑問を解決したいと考えてインドに行くことを自らに誓った。

当時、隋の後を継いだ唐は西域にいく交通を許可していなかった。繰り返し玄奘は嘆願書を出したが、全て却下されてしまう。そこで、国禁を破ってインドに向かうことを決意する。

ーインドへの旅
629年、27歳の時に密かに旅装を整えて固い決意を胸に長安を独り出発した。

苦労の末に河西回廊の伊吾に着いた青年僧がいるという噂は、タクラマカン砂漠中のオアシス国家に広がった。これにより、伊吾の隣国、高昌国の国王が迎えの使者を送ってくることとなる。

玄奘の学識、人格に惚れ込んだ高昌国王は、国師として引き留めようとした。しかし、玄奘の固い決意を知り多くの旅費、人馬を送って、当時シルクロードの支配権を握っていた西突厥の王に紹介の親書を書く。

こうして西突厥の王は高昌国王の親書と贈り物を受け取り、玄奘を歓迎した。玄奘がまた次の場所へ出発する際には、西突厥の王は沿道の諸国に宛てた親書と通訳の若者をつけて送ってくれた。

その後、バーミヤン、カシミール、ガンダーラを経てインドへ到着し、インドのナーランダ僧院に至る。ナーランダ僧院は、インドのナーランダ中部にあり427年に建てられた世界最古の仏教大学の1つであり、北部インド仏教の最重要拠点であった。

玄奘は、ナーランダ寺で正法蔵と尊称され、戒賢法師であるシーラバトラの下で5年に渡り研学に努め、その名声は次第に高くなっていった。

ー唐に帰国し経典翻訳
642年、40歳の時に唐への帰国の決意を固め、師に学び得た大乗の教えを中国に持ち帰り広めたいと願い出て許しを得ることとなる。

643年、パミールを越えカシュガルを経てホータンに着き、玄奘はここで唐の太宗皇帝に上奏文を送り、入国の許可を求めた。

翌年の644年、太宗皇帝から「途中の役所には玄奘の保護を命じた。一刻も早く帰国されよ」という詔書が送られてくる。

645年、43歳の時に唐に帰国し、洛陽にて太宗皇帝に拝謁する。皇帝に拝謁した玄奘は、インドから持ち帰った経典を正しく漢訳し、中国仏教に正法を確立したいと国家援助による経典翻訳事業の許しを求めた。皇帝は玄奘の命をかけたインドへの旅に感動し、直ちに宰相に手配を命じた。

こうして、宰相の援助の下、多数の僧が集められ漢訳が進んでいくこととなる。最初に菩薩蔵経の漢訳がなされ、数多くの漢訳がなされていった。

648年、46歳の時に玄奘の旅行記録である大唐西域記が弁機と僧の協力で編纂される。巻末に弁機は編者として「幸運にも、機会に恵まれ未熟な自分が、偉大な法師の末席に交わり、この大唐西域記の編集を命じられた。学問が未だ該博でなく、文章も名文を書く訳ではないが愚鈍を磨きこの偉大な記録を編集した」と残している。

この年、玄奘は新築された大慈恩寺の上座とされた。さらに持ち帰った経典や仏像を保存する建物の建築を高宗に進言し、652年、50歳の時に大雁塔が建立された。

664年、62歳で玄奘は死去する。

●玄奘関連のエピソード
・1981年、玄奘を宗派の始祖と仰ぐ奈良県の薬師寺に玄奘の遺骨が納められている。

・道昭という唐へ渡った留学僧が玄奘に教えを受け、日本へ法相宗を伝える。

・平山郁夫という画家が、取材のためシルクロードへ足を運ぶこと130回以上、スケッチ5000点を描いた。
↓平山郁夫画家の絵

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