【没後50年の時を経て】世界的文豪 三島由紀夫とは一体何者か!?

教養/豆知識

没後50年!三島由紀夫について名前くらいは聞いたことがあるという人はきっと多いでしょう。私も、名前は聞いたことがあるくらいでどのような人かは恥ずかしながら全く知りませんでした。
作家、官僚、俳優、同性愛者、謎のベールに包まれた三島由紀夫の生涯について簡単ではありますがご紹介したいと思います!よろしければ是非ご覧下さい!

●プロフィール
本名 平岡公威(きみたけ)
出世 1925-1970(45歳没)
出身 東京四谷生まれ
肩書 作家、官僚、俳優、同性愛者、ボディビルダー
とんでもない裕福な家庭に生まれた。
特に父方の母(祖母)の血筋が凄い。

●三島由紀夫の生涯
学習院初等科に入学し、あだ名はアオジロであった。父方の祖母の影響で本を読み漁っており、文学の才能を開花させていく。若干6歳で俳句を書いていた。

16歳で花ざかりの森を書き、恩師である清水文雄に見せている。三島の父は文学に傾倒するのをよく思っていなかった。この時に本名でなく、ペンネームの使用を清水文雄から勧められている。恩師である清水文雄が掲載の際に編集会議の1泊旅行で三島で富士山の雪を見て、三島由紀夫のペンネームを考えたという。

三島は学習院高等科を主席で卒業する。20歳の頃に戦地への出征要請があるが、熱により帰郷する。
大学生の時に大変仲の良かった妹が死去し、そして大好きな恋人にふられるという災難が起きる。

1947年、東大法学部を卒業し高級官僚試験に合格する。学生時代には、川端康成と太宰治に出会っている。その川端康成の支援により、作家としての道を進むこととなり、川端康成とはまさに師弟関係であった。三島由紀夫は美輪明宏とも交流があり、きっかけは銀座のバーで働いていた美輪明宏と出会ったことによる。

1955年、30歳の時にボディビルを始め、コンプレックスであった肉体を改造していく。

1957年、32歳の時に知人から紹介された人と結婚し、その時の晩酌は川端康成であった。

1960年、35歳の時に映画で主演を務める。

1967年、42歳の時に自衛隊に体験入隊する。この理由については不明であり、民兵組織による祖国防衛隊を作ろうと計画するが計画は断念する。

1968年、43歳の時に楯の会を発足する。楯の会はまさに極右組織であり、三島は憲法改正を訴えていく。楯の会は、厳しい訓練を積んだ精鋭達で固められていた。

1969年、44歳の時に大学内の連合体である東大全共闘と東京大学教養学部の教室の会場に集まったおよそ1000人の学生と約2時間半にわたって討論を行う。東大全共闘の結成は1968年7月、医学部のインターン制度廃止に端を発した反対運動の広がりと学内への機動隊導入に抗議したもの。いわゆる左翼的な運動である。

1970年、45歳の時に憲法改正を訴えるためにクーデターを起こし、自衛隊を国軍とするために共に行動を起こそうと訴える。マイクなしで地声で10分しか演説が出来ず、天皇陛下万歳といって割腹自殺する。自衛隊の大多数が三島の憲法改正の考えに共感するとしており、防衛庁は慌てたとされる。単純に軍国主義の発想と捉えるべきでないとする声もある。

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