日本を代表する経営者といえば、松下幸之助になります。
そしてまた、もう1人同じように並び称される人物は本田宗一郎ではないでしょうか!
今回はそんな本田宗一郎とホンダの歩みそして本田宗一郎が残した言葉についてご紹介したいと思います!
記事は、(本田宗一郎100の言葉「別冊宝島編集部 編」)を参考にしております。
●本田宗一郎とホンダの歩み
1906年 静岡県磐田郡光明村にて誕生する。
1917年 11歳の時、アート・スミスの飛行ショーを地元浜松で観賞する。
1922年 16歳の時、アート商会に入社する。
1923年 17歳の時、関東大震災が発生する。
1928年 22歳の時、アート商会浜松支店を創業する。最初の結婚をする。
1934年 28歳の時、妻と離婚する。
1935年 29歳の時、磯部さちと再婚する。
1937年 31歳の時、東海精機重工業を創業し、浜松高等工業学校に聴講生として入学する。同年、トヨタ自動車が設立される。
1945年 39歳の時、東海地震と空襲により、東海精機の工場は壊滅的な打撃を受ける。同年、トヨタに東海精機の株式を譲渡する。
1946年 40歳の時、本田技研研究所を設立する。
1948年 42歳の時、本田技研工業を設立する。
1949年 43歳の時、ドリームD型を発売する。経営を任せる藤沢武夫がホンダに入社する。
1950年 44歳の時、東京営業所を開設する。
1951年 45歳の時、ドリームE型を発売する。
1952年 46歳の時、カブF型を発売する。4億5千万円をかけて海外から工作機械を購入する。
1954年 48歳の時、マン島TTレースへ参加表明する。同年、マン島レースを視察する。
1957年 51歳の時、ドリームC70を発売する。
1958年 52歳の時、スーパーカブを発売する。
1959年 53歳の時、アメリカ・ホンダを設立する。同年、マン島レースに初参戦する。
1960年 54歳の時、鈴鹿製作所が完成する。同年、本田技術研究所を設立する。
1961年 55歳の時、マン島TTレースで完全優勝する。
1962年 56歳の時、ホンダ初の自動車、S360、T360を発表する。同年、鈴鹿サーキットが完成する。
1964年 58歳の時、宗一郎がF1レースへの参戦を宣言する。
1965年 59歳の時、ホンダがF1レースのメキシコ・グランプリで初優勝する。
1966年 60歳の時、大気汚染対策研究室が発足する。同年、軽自動車のN360を発表する。
1967年 61歳の時、軽自動車のN360を発売する。同年、F1イタリア・グランプリで優勝する。
1968年 62歳の時、小型乗用車H1300を発表する。
1969年 63歳の時、軽自動車のN360に欠陥車騒動が起きる。
1970年 64歳の時、アメリカで自動車の排ガス規制を目的としたマスキー法が制定される。
1971年 65歳の時、CVCCエンジンの開発成功を発表する。
1972年 66歳の時、シビックを発売する。同年、CVCCエンジンがマスキー法規に世界で初めて合格する。
1973年 67歳の時、社長の宗一郎と副社長の藤沢武夫が退任する。
1974年 68歳の時、宗一郎がホンダ全従業員との握手旅行を開始する。
1989年 83歳の時、宗一郎がアメリカの自動車殿堂に入る。
1991年 肝臓がんによって84歳で死去する。
●本田宗一郎が残した言葉
数々の本田宗一郎(以下宗一郎)が残した言葉から私が心に残った言葉についてご紹介したいと思います!
「何か発明しようと思って発明するバカがいたらお目にかかりたい。困ったとき、それを解決するために知恵を出すのが発明である。」
東海精機重工を設立した際にピストンリングの開発製造に乗り出すが当初全然うまくいかず、工場に泊まり込み会社が倒産寸前に陥った時にようやくピストンリングが完成した時に出た言葉になります。
「真似をして楽をしたものはその後に苦しむことになる。一度真似をすると、永久に真似をすることになる。」
他者の模倣を嫌った宗一郎のポリシーがこもった言葉になります。ホンダは独自開発にこだわり外国メーカーに追いつくまでに相当の時間がかかりましたが、追いついてからは他社に大きな差をつけることが出来るようになりました。
「演技で怒ったりタイミングを見て𠮟りつけたり怒ることをテクニックとして使う人がいるが私にはとてもそんな余裕はない。」
宗一郎は演技が一切出来ない人物だったようです。いつわりのない気持ちを相手にぶつけた方が結局は心が通じ合い、信頼も生まれるのではないでしょうか。
「弘法筆を選ばずというが、日進月歩の技術の世の中ではやはり筆を選ばなければならない。」
当時、資本金6000万円だった時に4億5千万円の工作機械を購入しました。日本のオートバイの技術は10年遅れだが、機械を購入すれば1年で追いつける。そしてホンダが潰れても機械は残るという発想から生まれた言葉になります。
「開発というものは企業のためにやるんじゃない。世の中に貢献するという気持ちがなければいけない。」
ホンダが世界に先駆けてマスキー法をパスした低公害エンジンであるCVCCの開発に成功した際に、トヨタやGⅯに追いついたという趣旨の話を宗一郎が社員に向けて行いました。そうしたところ、若い社員たちから「この開発はホンダのためではなく、空気を綺麗にするという世のため、人のためと言っていたのは社長だったじゃないですか。」と反発の声があがりました。それを聞いた宗一郎は冷や汗を流す思いで猛省し、自らの不明を恥じた際に出た言葉になります。
「会社のためじゃなく自分が幸福になるために働け。」
個人の幸福の上に会社と国家の繁栄があるのであって、その逆は真ならずと説いた宗一郎の言葉になります。協調的、献身的労働がある種の美徳とされた昭和の時代、この宗一郎の言葉には日本人の仕事観を覆す斬新さがありました。
「何より嫌いなのは人間に階級をつけることだ。ウチでは私を含め全員が同じ社員だ。身分の相違はひとつもない。」
部長、課長、社長も包丁も盲腸も同じだ。要するに符丁なんだ。人間の価値とは全く関係ない。社長は役割に過ぎないという宗一郎の考えから生まれた言葉になります。
「需要がそこにあるのではない。われわれがそこに需要をつくりだすのだ。」
戦後、傘の需要は非常に高く多くの業者が生産に乗り出し、たちまち供給過剰になって多くの会社が倒産しました。しかし、折り畳み式の傘が考案されると、需要がなくなったはずの傘は再び売れ始めました。つまり需要を作り出すのはアイデアであり、それは市場開拓の本質を言い当てた宗一郎の言葉になります。
「石橋を叩いて渡るという言葉は嫌いだ。石橋だということが分かれば叩かずに渡ればいいんだ。」
石橋を叩かず失敗するより、叩いている時間をロスすることの方がもったいない。とにかく行動すること。そんな宗一郎の生きざまを表した言葉になります。
「トイレをどう扱うかを見ればその会社の経営者の心が分かる。」
外から見えない部分、隠れている部分にこそ注意を払い、細部に想像力を働かせることが出来なければ良い商品をつくることは出来ないという宗一郎の考えから生まれた言葉になります。
「オレが死んでもお願いだから銅像だけは作らないでくれ。」
本田という人がいた、というぐらいでいいんだ。現在だけを大事にすればいい。そんな宗一郎の思いを表した言葉になります。