【最澄】一隅を照らす!天台宗を広めた伝教大師の生涯とは!?

教養/豆知識

日本仏教の祖はいわずと知れた最澄と空海の2大巨頭になります。
きっと名前を聞いたことがある人は多いのではないでしょうか。
今回は最澄についてどのような人物だったのかざっくりご紹介いたします!
空海についてはこちらをご確認下さい!

 

●プロフィール
名前 最澄(出家する前の名前:三津首 広野)
別名 伝教大師
出身 近江国古市郷(今の滋賀県大津市坂本本町)
出世 767-822(56歳没)
三津首(みつのくび)の初代は中国や朝鮮半島から琵琶湖付近に渡ってきた渡来人と言われており、最澄には古代中国の血筋が流れていた可能性があるとされる。

 

●まず天台宗とは?
日本で開宗した天台宗は最澄がアレンジして進化させた日本独自のものである。「すべての人が仏になれる」と説き、貴族から農民まで幅広い人の信仰を得て本堂がある比叡山延暦寺にて法然、親鸞、日蓮、栄西、道元といった名だたる僧を生んでいる。最澄が生んだ日本独自の天台宗は四宗融合と呼ばれる思想が特徴的であり、円(法華経の教え)、密(密教の教え)、禅(座禅)、戒(僧のルール)の4つをメインとした教えであり、こうした天台宗の戒壇を求めて南都六宗(三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗)と対立する。戒壇とは僧を養成する施設であり、正式な僧を世に送り出そうと最澄は考えたのである。

●最澄の生涯
-出家、比叡山に籠る
最澄は12歳の時、父である三津首(みつのくび)百枝が仏教ファンであった影響を受けて近江国に建てられていた国分寺で学ばされることとなる。そして、2年後の14歳の時に出家する。国分寺の偉い僧侶から奈良にある東大寺で試験をするように推薦される。これは、現在の公務員試験のようなもので戒律と呼ばれるものである。19歳の時に最澄はこの試験に合格し、東大寺の僧侶として国から認められることとなる。しかし、この試験合格の3か月後最澄は比叡山に籠ってしまう。なぜ、奈良の僧侶とならず比叡山に籠ったのか。奈良時代中期から平安時代にかけての仏教は民衆などの人たちを導き心の底から精神を救うという本来の仏教の使命から遠くかけ離れた存在となっていたからである。むしろ政治の中に癒着する僧侶達が増加し、その僧たちは目先の利益や自分の出世しか考えない堕落した仏教世界となっていたのである。700年中期頃、大化の改新(蘇我氏打倒に始まる一連の政治改革。唐の律令制を手本として、公地公民制による中央集権国家建設を目的としたもの。)による影響で律令国家となっていたが、徐々に矛盾が生じてきており、奈良時代の頃のように政治と宗教が一体となってしまっていた。そんな偽りの宗教になっていたことに気づいた最澄は寺を飛び出し比叡山に登り修行するのである。最澄以外にも京の都の仏教腐敗に嫌気がさした仏教徒である僧侶たちの逃げ場として注目されたのが比叡山と高野山である。

-天台宗との出会い
785年、19歳の時最澄は比叡山に一乗止観院を建てる。これは、最澄が手作りで藁で組み立てた仮小屋であり、後に国宝となる延暦寺根本中堂の原型である。厳しい修行と共に仏教の多くの教えが記された経文を読み漁りその中で最澄が共鳴し心揺さぶられたのが天台宗であった。なぜ最澄は天台宗に魅了されたのだろうか。これは天台宗の教えが当時の日本仏教にはない革新的な教えがあったからである。当時奈良時代(710-794)に都で流行っていた仏教は南都六宗である。南都は奈良の平城京の位置が南の都であったのが由来となっており、これに対して京都の平安京は北都と呼ばれていた。六宗は6つの宗派が由来となっており、それぞれ三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗である。これらの宗派はそれぞれ考え方は細かくは違うが、お釈迦様の修行方法を参考にして自らの修行を積めば悟りは開けるという思想の点は共通しており、どれも一般の民主に向けてではなく、政界に顔を覗かせたり学問研究を重視していた。それに対して天台宗はお釈迦様の修行だけでなく、お釈迦様の信念である民を救うために悟りを開きたいという思いを大事にしていたのである。修行や学問を究めたものが悟りを開けるという南都六宗に対して、天台宗は誰でも仏教の教えを信じれば悟りが開けるという思想であり、最澄はこれに共鳴したのである。

-内供奉十禅師に任命される
最澄は比叡山で12年の間、修行を積み勉学に励んでいると都にいる天皇の耳に入ることとなる。797年、当時の天皇は桓武天皇であり国家の危険や不安な事が起こらないように皇族の健康維持を祈願する安泰(あんのう)を任されつつ看病にもあたる内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ)に当時31歳である最澄が選ばれる。当時奈良時代中期は道鏡のように政界に割り込もうとする僧の勢力が出てきていたため、桓武天皇は南都六宗の僧侶たちを平城京に置きざりにし、また平安京に都を移すに際し南都六宗の寺院を移転させないようにした。そこで新しい都である平安京に最新の仏教を取り組む計画をしていたところ都と距離をおいている天台宗を信奉している最澄に白羽の矢が立ったのである。

 

-最澄と空海が唐に渡る
804年、最澄は38歳の時に空海と出会い遣唐使船に乗って唐に渡る。最澄は今までは書物だけで学んでいたが、もっともっと仏教の神髄を知るために本場である唐で天台宗を学びたいと思うようになったのである。そこで桓武天皇にお願いし支援を受けて無事唐に渡ることが出来たのである。最澄と空海は同時に遣唐使として渡ったが、この時にはまだ2人は会話をしていなかったと推測されている。この時、空海は一階の修行僧であったのに対して、最澄は宮中内に従える内供奉十禅師に任じられたいわゆる高僧であり位が違ったのである。また唐に渡るに際しての資格や期間も違っており、空海は20年間勉学に励む留学僧であるのに対して最澄は1年間の短期の天台宗を視察する還学僧であり、また乗っている船が違ったため声をかわすことはなかったと大方推測できるのである。2人は唐に渡るが最澄は明州、空海は赤岸鎮にたどり着きその後長安に移動し勉学に励むが、最澄は長安に立ち寄らず浙江省に向かう。

-国清寺で学ぶ、最澄死去
最澄は国清寺で天台宗の学問を深く学ぶ。国清寺は598年に天台宗を開いた智顗大師が建設したお寺であり元々天台寺とであったが、煬帝により国清寺に改名される。また最澄が国清寺に訪れた理由は天台宗を学ぶだけでなく法華経が進んでいたことも1つあり、仏教を記した書物であるいわゆる経典は全て法華経が元になっており法華経が進んでいた国清寺を選んだのである。最澄は天台宗や法華経を学びつつ、必要な経典を移す写経も行いながらそれ以外に密教、禅、戒律なども学んでいく。最澄は1年間こうした作業を行い日本に帰ることとなる。805年6月日本に帰国した39歳の最澄は桓武天皇に京中に招かれ法華経や天台宗の経典を提出しその最新の仏教の情報に桓武天皇は大いに満足し、806年1月に天台宗が認められることとなる。822年6月比叡山中堂院にて最澄は56歳で病死する。僧を養成する施設である戒壇の設立までには至らず最澄は道半ばで没することとなるが、最澄の死の7日後に天台宗の戒壇の認証が得られる。その後最澄の弟子たちが天台宗を発展させていくことになるのである。

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