三国志は現在でも多くの実業家や指導者が実際に仕事や組織を運営する上で参考にしているバイブルのような存在になります。今回は三国志の中で天才軍師と称される諸葛亮について簡単にご紹介します!
三国志を知らない人でも”諸葛孔明”という名前を聞いたことがある人はいらっしゃるのではないでしょうか。天才軍師と称される人物のエピソードから現代人が学ぶべきところは非常に多いと思います!こちらは、「三国志正史」の内容になります。
●諸葛亮プロフィール
名前 諸葛亮(字は孔明)
出世 181-234
ニックネーム 伏龍、臥龍
稀代の天才軍師
●諸葛亮の生涯
181年、徐州にて誕生。そして、13、14歳の頃、曹操の徐州大虐殺から逃れる形で徐州を離れその後荊州に落ち着くこととなる。
青年時代の諸葛亮は徐庶といった学友らと交流し、勉学に励みながら晴耕雨読の日々を送った。この時から諸葛亮の才智は周囲の人々に評価され、伏龍と称されていた。その天に昇る機会を与えたのは、劉備であった。劉備は年下である諸葛亮に3回会いに行き、ようやく3回目に会うことが出来た。これが有名な”三顧の礼”である。この時に諸葛亮は劉備に対曹操の大戦略を説く。
その大戦略とは、「曹操は強いため孫権と手を結ぶ」「劉表は弱いから荊州を奪う」「劉璋も弱いから益州を奪う」こうして兵を進めれば、天下統一出来るというものであった。これが”天下三分の計”と言われる戦略の簡単な内容である。この時の劉備は、劉表をトップとする荊州の傭兵団の団長のような存在であった。しかし、作戦を考えたタイミングで曹操が荊州を攻め込んでくることになり、この時劉表が死去していたこともあり、あっさり降伏して荊州は曹操の手に下ることとなる。逃げた劉備陣営は呉の孫権と手を組み、劉備孫権連合vs曹操に発展することになる。これが、”赤壁の戦い”である。この戦いで曹操軍を撃破した劉備は、荊州南部を制圧する。それから月日が経ち、天下三分の計の戦略通り益州への侵攻を開始するが、劉璋軍に劉備は苦戦することとなる。荊州にいた諸葛亮に助けを求め、諸葛亮は張飛、趙雲を益州に向かい、荊州は関羽1人で守ることになった。劉備は益州を支配することとなるが、呉の侵攻により荊州にいた関羽は殺され、荊州を奪取される。これに怒った劉備は諸葛亮らの進言を聞かず、呉に侵攻するが大敗北を喫する。これが”夷陵の戦い”である。そして、なんとか白帝城に劉備は逃げ込むが滞在中に病にかかり63歳でこの世を去る。
こうして劉備の後を任された諸葛亮は宰相として国政を担いつつ、魏への侵攻を繰り返していく。しかし、司馬懿らの防戦によって食い止められ234年、五丈原の陣中で54歳で諸葛亮は死亡することとなる。
●寸評
天下三分の計は、諸葛亮の優れている点を示してはいない。そして、諸葛亮が孫権を説得して赤壁の戦いとなったことは有名であるが、実際には呉には魯粛や周瑜ら断固曹操と抗戦を唱える大将がいて、以前から孫権を説得していたらしい。もちろん諸葛亮の説得で、心が動いた可能性はあるが、諸葛亮の説得で孫権が開戦を決意したというのは少し無理があるのではないかとの見方も現在なされている。
劉備が入蜀している間は諸葛亮は軍師将軍、左将軍府の長官に任じられ、劉備が出征している間は蜀の首都成都に留まり、食糧や兵士の補充に務めたようである。
夷陵の戦いのときも、劉備が出征している間は諸葛亮が本拠地に留まり、後方支援するのが基本スタイルであった。こうしたことから内政面において絶大な信頼と功績があったことは間違いないとされている。
そして、劉備のあと最初の諸葛亮の出征は南中平定である。猛獲を7回捕まえたというのは疑わしいが、南中を平定し諸葛亮が生きている間に反乱したことはないため、軍の指揮官として見事な手腕を発揮したと思われる。
しかし、後年はなんでも自分でやろうとする性分が顕著に見られ役病など、危険な土地に自ら出征するなどの行動をしてしまう。
南中平定を終えた諸葛亮は、魏へと出征する。それに先立ち劉禅へと上奏された文が、出師表である。これを読んで泣かないものは、忠臣ではないとまで言われている。こうしたエピソードから諸葛亮の文才は高かったと考えられる。
1回目の北伐(魏への侵攻)は、孟達に内応させる作戦であったが、司馬懿に潰される。そして1回目の出征は諸葛亮自身のミスにより失敗する。そのミスとは、実戦経験の全くない馬謖に重要な役目を与えた結果、見事に失敗したというものである。それにより、侵攻上の要地を魏の曹操に抑えられたため、全軍撤退を余儀なくされる。馬謖の才智を高く評価していた諸葛亮は、ここで経験や武功を積ませたい意図があったと思われる。生前の劉備は、馬謖を口だけ野郎と評していたことと比較され諸葛亮は人を見る目がなかったという評価に繋がっていく。その後も諸葛亮は魏への北伐を行うが目立った戦果はないままこの世を去る。
諸葛亮は臨機応変な軍略が得意でなかったかもしれない。しかし、北伐から撤退する際に魏の王双や張郃といった追撃に来た敵将をしっかり討ち取っている。撤退戦で2度戦果をあげているのは、兵法を守りちゃんと伏兵を心配していたからだと考えられる。また、司馬懿軍との直接対決でも勝利した記述があり、司馬懿は撤退した蜀軍の陣跡を見て諸葛亮は天下の奇才だと評価している。諸葛亮は、戦史に煌めく作戦を取った訳ではないが、しっかりと平方上の理に適った動きが出来る将軍であったとされている。
他にも諸葛亮には発明家としての側面もあり、木牛は実際に北伐で使用されたようである。
そして、諸葛亮を語る上で欠かせないのが政治能力である。陳寿の記述では、諸葛亮は、丞相になると人民を愛し、自ら範を垂れ、不要不急の官職を削り、その時々に必要な政策を採用し、公開公正な政治を行った。とある。厳正な法治主義政治を敷いたが、それを怨むものはいなかった。それは、配慮が公平で賞罰が明確だったからである。実際に諸葛亮は泣いて馬謖を斬るで有名な法の厳正を示すために自らの愛弟子も処断することを行っている。
諸葛亮の死後、各地で霊領を建立したいという願いが出てそれが許可されないと民衆や異民族が各地で勝手に諸葛亮を祀るという事態が後をたたかなかったとされている。官民問わず多くの人に尊敬された為政者としては例を見ない偉人である最大の理由である。
●諸葛亮のちょっと残念なところ
・奇策や臨機応変の計略が得意でなかった
史書においては「奇策や臨機応変の計略が得意でなかった」とも書かれており、一番有能であった分野はやはり政治分野であったとされる。
・人を見る目には恵まれていなかった
並はずれた才能の持ち主であったが、人を見る目にはあまり恵まれていなかったと言われている。彼の一番のお気に入りだった馬謖は主である劉備からダメ出しされており、その通り挽回しがたい失敗を犯してしまった。
●諸葛亮のすごいところ
・政治力、統治力
諸葛亮は、丞相になると人民を愛し、自ら範を垂れ、不要不急の官職を削り、その時々に必要な政策を採用し、公開公正な政治を行った。
・南中平定の実績
南中を平定し諸葛亮が生きている間に反乱したことはないため、軍の指揮官として見事な手腕を発揮した。
・北伐でなかなか成果があげられなかったが、国が荒れなかったこと
北伐から撤退する際に魏の王双や張郃といった追撃に来た敵将をしっかり討ち取っている。
・偉大な為政者、優秀すぎた宰相
官民問わず多くの人に尊敬された為政者としては例を見ない偉人である。
●感想
私の中で天才軍師と称され100%完璧なイメージがあった諸葛亮ですが、奇策や臨機応変の計略が得意でなかったなど意外にも苦手な部分もあったとされていることは驚きでした。どちらかというと兵法をきちんと守り、愚直な戦いが得意であったのはイメージと真逆でした。しかし、官民問わず上からも下からも尊敬されていたというのは、まぎれもなく優秀なリーダーであったことが窺えます。また泣いて馬謖を斬るにもある通り、法治主義で忖度なくしっかりと処罰を公平に行うという行動力はまさに今の日本のリーダー達にも見習って欲しいところです。
~三国志キャラクター~
➡【三国志キャラクター①】魏の曹操〜天下統一に最も近づいた男〜
➡【三国志キャラクター②】呉の孫権〜地味だけど外交戦術のプロ〜
➡【三国志キャラクター③】蜀の劉備〜三国志演義の絶対的ヒーロー〜
➡【三国志キャラクター⑤】董卓~後漢王朝を滅ぼした恐怖の暴君~