【三国志キャラクター③】蜀の劉備〜三国志演義の絶対的ヒーロー〜

教養/豆知識

三国志は現在でも多くの実業家や指導者が実際に仕事や組織を運営する上で参考にしているバイブルのような存在になります。今回は三国志の中で人気があり有名な人物である蜀の劉備について簡単にご紹介したいと思います!
三国志演義では、絶対的ヒーローとして描かれているキャラクターになります。
この記事はNHK「ザ・プロファイラー」を参考に掲載しております。

 

●劉備プロフィール
劉備玄徳
出世 161-223
出生 涿郡

 

●劉備の生涯
161年、北京から60km南の農村地帯に生まれる。実家は漢王室の血筋を引く家柄とされているが、父が早くに没落したため貧しい暮らしで育った。小さい頃は、母と草履やむしろを売って生活していた。母は親戚の援助を受けて儒学を劉備に学ばせた。そんな劉備は勉強に興味はなかったが、商人や名士との人脈を犬や馬のレースを通じて広げていったとされている。
184年、23歳の頃、黄巾の乱が発生し、各地の農民が発起し漢の打倒を目指した。漢の役人の賄賂や民への重税などによる政治腐敗により、農民が立ち上がったのである。そこで劉備は、治安を守り、困窮した民を救おうと立ち上がる。義勇軍を作って人を集めた。その時に仲間に加わったのは、関羽と張飛であり、漢王室の血筋を引く劉備が目指したのは漢帝国の再興である(桃園の誓い)。
徳による政治で、かつての漢帝国の再興を目指した。その後、劉備は地方の行政官を任されることになった。それまでの役人とは違い、劉備は不当な税を徴収せず、身分を問わず民衆と接した。
193年、32歳の頃、徐州から援軍の要請がくる。徐州は上海から北西へ500kmの所。ここに侵攻してきたのは、曹操であった。破竹の勢いで領土を拡大する曹操だが、厳しすぎる規律で逃げ出す者も多かったとされている。そんな曹操との初対決は、ボロボロであったが曹操は何故か途中で撤退することになる。曹操の本拠地で留守中に反乱が起きたため引き返したためである。
194年、33歳の頃、劉備は徐州を領有することになる。それから1年後、無類の強さで知られる呂布が劉備の元にやってくる。呂布は、権力を掴むためには、主君を裏切り殺害することも厭わない人物であった。しかし、劉備は君主殺しの経歴を承知で呂布を部下にする。案の定、呂布は劉備の留守中に反乱を起こし徐州を強奪する。この時、行き場を失った劉備が頼ったのはかつての敵、曹操であった。この時、曹操も呂布と敵対していたので、共同戦線を持ちかけたのである。曹操が援護に加わったことで、劉備は呂布を捕らえることに成功する。曹操は武将として呂布を生かそうとしたが、劉備は信用出来ないと主張し呂布を処刑する。かつてから自分にはない徳を持っていた劉備を評価していた曹操はその後も劉備を厚くもてなした。
しかし、後漢の14代皇帝献帝に曹操の暗殺密令を劉備は受けていたのである。暗殺計画がバレないように敵軍討伐を口実に曹操のもとを逃げ出す。そして、関羽、張飛とともに向かったのは呂布に侵略されていた徐州であり、徐州奪還に成功する。その後は領地を得る大事な戦いに負け続けてしまい、部下を引き連れて流浪の日々が続く。そんな中、土地を追われた貧しい民が劉備についていきどんどん人数が増えていった。

200年、39歳の頃、裏切りに激怒した曹操が徐州に攻め込んでくる。劉備は妻子を見捨てて逃走する。これにより、義兄弟の関羽は曹操に捕まってしまう。一方逃げた劉備は曹操と敵対していた豪族の元に身を寄せ居候となった。捕らえられた関羽は意外にも手厚い待遇を受け曹操から金品や名馬を授かり兵士と土地まで与えられた。曹操は武勇に優れた関羽を部下にしたいと考えていた。こうした厚遇を受けながらも関羽は、劉備を裏切ることは出来ないと部下になることを拒否する。その上で関羽は曹操と敵対する武将を次々と倒していき、関羽は曹操の誘いを断り去っていった。こうした元の主君に帰っていくのは、中国では極めて例外的なことであった。一方、曹操の部下は去っていく関羽に追い討ちをかけようとするが、曹操は追跡してはいけない。と止めてむしろ君主であった劉備のもとに帰る関羽を”義”だと評したのである。こうして201年、40歳の頃、劉備は関羽と合流し、漢の皇帝の血筋を引く荊州の劉表のもとに身を寄せることになる。荊州は中国の真ん中付近で多くの儒学者がいる地であった。
劉備はここで6年過ごし、なぜ自分が領地を持てないか考える。そして民や土地を治め長期的な戦略を描ける優秀な軍師が必要だと考えた。そんな中、諸葛亮という人物の噂を聞くことになる。1回訪問し、留守であったが、諦めずに3回訪問することになる(三顧の礼)。
諸葛亮はこうした劉備の姿勢に感動し、天下統一への道筋を示したのである。曹操と単独で戦うのは得策でないと考えた諸葛亮は、南方の大国、呉の孫権と組み曹操と対抗させて、その間に劉備は拠点となる土地を手にいれ天下統一への足掛かりを作る案を提示する。これが天下三分の計と言われ、後に広く知られることとなる。

208年、劉備47歳の頃、曹操は荊州に侵攻する。同じ年、荊州の領主劉表が死去する。この時、諸葛亮は劉表の息子を討てば荊州を奪うことが出来ると劉備に進言する。しかし、劉備は忍びないと断ることとなるが、劉表の息子はあっさり曹操に降伏する。こうして劉備は荊州を仲間とともに離れることになる。曹操の厳しい仕打ちを恐れた民衆は続々と劉備について行きその数十数万人と言われている。側近からは民を見捨てて早く逃げようと進言されるが、劉備は「大事をなすには何よりも人をもってもととなす。今自分を慕って来てくれている人々を見捨てて行けるか」と断る。しかし、劉備の軍に追われて絶対絶命の状況となる。ここで義兄弟の張飛が相対することとなる。張飛の気迫に怖気付いた曹操軍は誰一人張飛に近づかなかったという。絶対絶命の状況を脱したものの、またも劉備に流浪することとなる。
47歳の頃、劉備は長江のほとり武漢に逃げのびて来た。劉備は諸葛亮を孫権の元に送った。その時、孫権は曹操と戦うべきか降伏するべきか悩んでいた。ここで諸葛亮は孫権に対し、「もしも曹操なかなわないと思われるのであれば、すぐに降伏なさるがいいでしょう」と降伏を進めたのである。孫権は降伏する意思がない諸葛亮に対して、「劉備陣営はなぜ降伏しないのか?」と問いかけた所、「劉備殿は漢王室の血筋なので負けても天命」だと諸葛亮は答えた。こうして火がついた孫権は、劉備と手を結び曹操と戦うことを誓い諸葛亮の狙い通り同盟が成立する。その頃、曹操は20万人の大軍を率いて長江を下っていた。一方、劉備、孫権軍は3万。曹操は陸上の戦いは得意であったが、水上の戦いは不慣れであった。曹操は船同士を繋げて固めていた。そこで、劉備、孫権軍は一計を考える。
作戦:降伏したいという手紙をあらかじめ曹操に送らせておく。夜、味方を裏切ったふりをして曹操軍の元に船を接近させ、降伏にきたとして曹操に警戒を解かせる。そして、一斉に船に火をつけて曹操軍の船に突進する。こうして曹操軍の船は次々に延焼し、曹操軍はおびただしい数の負傷者を出し敗走することとなり、劉備、孫権軍は勝利する。

劉備は、この赤壁の戦いの後、荊州の南方を占領する。ついに天下三分の計となる地を手にいれた。劉備が次に狙うは荊州の西にある益州であった。この時、益州を治めていたのは劉璋である。
211年、50歳の頃、劉璋からの使者が劉備の元に来る。その使者は劉璋を見限っており、劉備から益州を奪うように進言する。そして、劉備は自ら数万人の兵を引き連れて益州に向かう。
1年後、曹操が孫権を攻め始めたのをきっかけに孫権を助けるために兵を動かしたと思わせ、劉璋がいる成都に向かったのである。劉備は10万を超える兵で成都を包囲し、劉璋を降伏させて益州を手に入れることとなる。214年、53歳の頃、天下三分の計の形が整い、漢帝国の復興に近づいた。
218年、57歳の頃、益州北部の曹操の拠点漢中を奪うために侵攻する。曹操も本拠地長安から自ら出陣する。長期戦の末、曹操は撤退する。こうして劉備は漢中を手に入れて天下統一の重要な足掛かりを手に入れた。しかし、この時漢中を奪われた曹操は報復のために孫権と手を組み荊州を攻めており関羽を殺害していたのである。そして、関羽を殺した孫権を荊州を手に入れる。孫権の裏切りに対して怒りに震える劉備は張飛に1万の兵を預け呉に出陣するよう命じる。ところが、張飛が出陣しようとした時に部下に謀反を起こされ張飛は暗殺されてしまう。義兄弟の関羽と張飛を失った劉備は、孫権への復讐に燃えた。しかし、家臣の中には戦うべきは曹操であり、孫権と戦うべきではないと進言するものもいた。
221年、60歳の頃、蜀の皇帝となり漢帝国の復興を宣言する。政にも信念を貫き、敵将でも一定の地位を与え活躍の場を設け”徳”による政治を行なった。そして、天下統一を目指し、劉備は周囲の反対を押しきって孫権の元に出陣する。劉備軍は孫権軍の拠点を次々と落として進軍する。しかし、孫権はあえて全面対決を避けて持久戦に持ち込んだ。孫権の領地に深く侵入した劉備は50以上の陣営を敷いていたが、ほとんどは夏の暑さを凌ぐ為、森の中に作られていた。これは孫子の兵法で禁じられている愚策であり、孫権軍の火打ちに合い次々と陥落し数万人の兵士が亡くなったとされている。劉備はなんとか味方の城まで辿り着き難を逃れるが、そこで病を患い死期が迫ることとなる。そこで諸葛亮を呼び、「我が息子が補佐するに足る器なら補佐してほしい。そうでないなら君が国を取るが良い。」と提案した。そこで諸葛亮は劉備の息子を補佐することを約束する。
223年、62歳で劉備はこの世を去る。
劉備の後を継いだ諸葛亮は天下統一を目指し5度に渡り魏と戦うことになるが、道半ばで病に倒れた。
280年、魏のクーデターから誕生した晋が中国を統一し三国時代は終焉する。

 

●劉備のすごい所
① 平民クラスからのし上がったこと
曹操や孫権といった決して家柄が良く裕福な育ちではなかったが、一国の長にまで登り詰めたのは凄いと思います。

②負け続けても民衆がついてきたこと
最初はあちこち放浪して大変な目に会っていたが、揉まれた分だけ人を見る目も成長したのではないでしょうか。

③関羽、張飛、諸葛亮名だたるメンバーに恵まれたこと
関羽や、張飛との義兄弟の関係、自分よりも20歳も若い諸葛亮の元を、3回も訪ねて頭を下げたりなど人間的な魅力が大きかったからこそこれだけのメンバーが付いてきたのではしょうか。

 

●感想
元々自分が貧しい人間だったからこそ民衆に寄り添えたのではないかと思います。この目線は、曹操と孫権にはない目線だったと思います。また、当時の儒学的な思想が強い中、20歳も年下の諸葛亮に3回も会いに行き頭を下げるというのは凄いことだと思いました。ある意味、曹操とは違い普通だったからこそ民衆は劉備に付いていったのだと思います。
少し怖がりでお人好しで情に熱いところがあるので、曹操が侵攻して来た時、妻子を置いて逃走したり、周りが反対する中、呂布を信頼するけど結局反乱を起こされたり、呉に裏切られ関羽を討たれた時も重臣の意見を聞かずに暴走してしまったりしますが、非常に人間的に魅力がある人物だったからこそ負け続け流浪してもたくさんの民衆がついてきたのだと思います。
曹操とは違い”徳”による政治で漢帝国の復興を目指した劉備。最後は志半ばでこの世を去りますが、人を大切にして導いてきた姿は現代においてもリーダーに求められる素質を十分に秘めた偉人だと言えるでしょう。

 

~三国志キャラクター~
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