【三国志キャラクター①】魏の曹操〜天下統一に最も近づいた男〜

教養/豆知識

三国志は現在でも多くの実業家や指導者が実際に仕事や組織を運営する上で参考にしているバイブルのような存在になります。今回は三国志の中で最も天下統一に近づいた魏の曹操について簡単にご紹介したいと思います!
三国志演義では、主人公劉備や諸葛公明に対して悪役に描かれているキャラクターになります。
この記事はNHK「ザ・プロファイラー」を参考に掲載しております。

 

●曹操プロフィール
名前 曹操
出世 155-220
魏の基礎を作った人物
三国志演義では、悪役、敵役として描かれている。

 

●曹操の生涯
漢時代末期、155年に洛陽の東にて誕生する。
父の曹嵩、祖父の曹騰ともに漢帝国の重臣であった。エリート一家の御曹司であった。祖父の曹騰は宦官であった。宦官とは本来、皇帝のお世話係であり政治とは無縁であったが、徐々に政治権力を付け裏で操るようになっていった。祖父の曹騰は、宦官のリーダーであった。宦官以外にも役人の賄賂や民を苦しめる重税などにより、腐敗した政治となっていた。父の曹嵩は三公の権力を金の力で手に入れていた。曹操はこうした漢帝国の闇を幼少期から見て過ごしていた。
174年、20歳の頃中央の役人に選出される。この頃に、「私は他人から凡庸な人間と見られることを恐れた。だからいい政治をし、世に名を知らしめたいと思った」と語っている。

-正義を掲げた五色棒
長さ1m、幅10cmにわたる5色に塗られた棒。罪人の刑罰に用いられたと言われている。曹操は、自分が決めた規則に反する者を棒打ちの刑をおこなった。今までは、国の思想である儒教によって棒打ちの刑は行われていなかった。儒教とは、皇帝は徳(思いやり、寛容さ)、民は礼(忠誠心、対人関係を重んじる)といった法律で縛るより皆が正しい行いをすることで秩序ある社会を目指すという思想である。ところがこの儒教という思想が腐敗した世の中を生み出してしまったと曹操は考えた。そして曹操は厳しい刑罰を復活させることとなり、規則違反者を殺してしまう。
曹操は冷徹な役人として名をあげることになる。
184年、30歳の頃、北東部の済南国に行政官として赴任する。現在でいう県知事という役職にわずか30歳でつくことになる。ここで、曹操は地方役人の腐敗ぶりを目の当たりにする。民に金や食糧を上納させて自分の財産を肥やし、それを賄賂として都の役人に送り自らの出世につなげていたのである。
ここでも曹操は、冷徹な対応で都との癒着を断ち切らせた。こうした行動により、中央でいい思いをしていた有力者たちが曹操に恨みを持つことになる。曹操は有力者の報復が家族に及ぶことを考え、あっさり官職を辞任する。31歳で生まれの地洛陽の東に帰ることになり、隠遁生活が始まる。

-軍師荀彧のささやき
189年、35歳の頃、皇帝直属の軍の司令官に抜擢され都に復活する。地方では武将の力が強くなっていた。そんな中、辺境の武将の1人董卓が強大な軍勢を率いて洛陽を制圧する。董卓は、自分の言うことを聞く幼い皇子を皇帝としその権威を盾に政治を始めた。反対する勢力は宮中から追い出し、民には重税をしき、意に沿わない者は虐殺していった。その後、洛陽の宮殿を焼き払い都を長安に移してしまう。曹操はこの暴虐無人に対し「賊臣が政権を握り皇帝と都を滅ぼした。漢はここに滅亡した。」と述べている。
190年、36歳の頃、反董卓連合を結成する。数十万人にも及ぶ人数で、袁紹や孫堅や袁術といった有名な武将もいた。ところが、いざ董卓を前にすると武将は我が身を案じ、進軍を躊躇した。曹操は連合軍を離れ、わずかな軍で董卓軍に立ち向かうことになる。しかし、董卓軍の前に惨敗という結果となる。192年、董卓は呂布一族によって殺害されるも漢帝国の復興はなされなかった。こうして各地で天下取りの争いが始まっていく。そんな中、軍師荀彧が曹操の前に現れる。荀彧は儒教の教えを学び、漢帝国の復興を願っていた。他の武将が董卓を前に逃げ惑う中、俄然立ち向かっていった曹操こそ漢再興を成し得る人物と思い曹操の元に来たのであった。
196年、42歳の頃、他の武将に差をつける荀彧のささやき(作戦)を受けることとなる。天子奉戴、今や流浪の身となり実権を無くした皇帝を迎え入れるべきだと荀彧は提案する。この作戦のメリットは、民衆の信頼が得られるというものであった。デメリットは、皇帝の権力を利用する悪と見なされ意味嫌われることであった。自身の拠点である許に宮殿を構え皇帝を迎え漢帝国の象徴として祭りあげた。こうして、曹操は三公の役職につき、敵対する武将を逆賊として討伐していく。曹操は民衆にも目を向けて屯田制を開始する。当時、戦乱の中、多くの農民が流民となり土地は荒れ果てていた。曹操は農民達に土地を無償で提供し、農具や牛を貸し出すと交付した。流民達は、土地を手に入れ落ち着いた暮らしを取り戻し、曹操自身も開墾地からの税で財源を増やし国力を高めるというWin-Winと考えたのである。「国を安定させる方法は強い軍と豊かな食にあり」と残している。こうして曹操は乱世を制する武将へと昇っていったのである。
孫子の兵法は曹操の愛読書である。現代に伝わる孫子は曹操が戦いで試した経験を注釈して書き加えたものである。そんな曹操が身につけた戦い方は、兵は詭道なりである。戦いとは騙し騙されさらに騙すという繰り返し。曹操が1番活躍した戦いは袁紹との官渡の戦いである。袁紹が10万の軍勢に対し、曹操は1万の軍勢であった。
199年、45歳の頃、官渡の戦いが始まる。
作戦:「敵を動かすには敵が必ず従う形を作り出せ」すなわち先手を打って戦いの状況を作ることで相手を思い通りに動かしてしまえという作戦である。
袁紹に黄河の対面である白馬に少ない兵力を向かわせ戦わせている間に横から狙える状況を作る。そこでこれを迎え討とうと袁紹が慌てて本体の向きを変えて進軍した所、曹操は全速力で白馬に向かい袁紹の先発隊を撃破したのである。
しかし、袁紹にはまだ兵が大量に残っており、どんどん曹操を攻めていき、曹操は官渡に籠城することになる。袁紹は曹操軍を包囲する。一方の曹操は心が折れることなく投石機を使い中から石を投げて袁紹軍が設置した櫓を壊していく。また、袁紹軍の兵糧基地を5千の兵を向かわせて全ての食糧を焼き払い袁紹軍を撤退させることに成功する。

-国の新時代を告げる詩
袁紹を破り、天下統一に最も近づいた。そして長江の南側まで勢力を拡大した曹操は、208年、54歳の頃、劉備、孫権の連合軍と赤壁の戦いを始める。この戦いで曹操は大敗を喫し撤退する。そして、曹操、孫権、劉備の三国時代が始まることとなる。この頃から自身が戦場に赴く数が減っていく。曹操は、天下統一から新しい国造りへと思考が変わっていった。
210年、56歳の頃、役人の登用制度を改革する。今までは儒教の教えである考(目上の人物に服従)、廉(清廉潔白であること)これに当てはまる人物が役人に採用されていた。曹操はこれとは全く違い、兄嫁と関係を持ち賄賂も受ける者でも構わない、才能さえあれば採用されるという制度を設けたのである。そしてさらに採用基準とされたのが”詩”であった。自らの考えを詩で表現出来る人物についても採用の対象となった。曹操が高く評価したのは、願いや志を込めた詩である。曹操は個人の志や感情を重視して文学の才能を軸として国を刷新しようとした。一方、儒教の価値観が全てである長年連れ添った荀彧と次第に対立していくことになる。
212年、荀彧は曹操によって死に追い込まれることになる。そして、盟友を失いながらも曹操は理想の国造りをやめることはなかった。優秀な人材は魏の礎を築いていったのである。
220年、66歳の頃、曹操は病により死去する。

 

●曹操のすごい所
①孫氏の兵法を実践し書き加えたこと(軍略家の側面)
曹操は机上の空論ではなく、自らの豊富な実戦経験に基づき孫氏の兵法に注釈を加えた。そして、現在に至るまで『孫子』は曹操の解釈によって読まれている。曹操は自らの経験を理論化できるほどすぐれた軍略家だったといえる。

②屯田制を設けたこと(政治家の側面)
曹操は、内地の持ち主のいなくなった土地を農民に与え、集団で農耕に従事させて税を納めさせる「民屯」を実施した。

③儒教の価値を下げ、文学で人材評価したこと(政治家の側面)
これまで後漢帝国を支えていた文化的価値は儒教であり、「名士」も儒教を価値基準としていた。曹操は儒教の価値を下げるために、これに代わるものとして文学を提唱したのである。文学によって人材評価し、文学によって官職を与えた。

④ 五言詩を主とする「建安文学」を打ち立てたこと(文学者の側面)
曹操は文学者としての顔を持っており、文人達と文学サロンを形成し、当時軽んじられていた民間の形式である五言詩(五字を一句とする詩の形式)を主とする「建安文学」を打ち立てた。曹操自身もすぐれた作品を残している。曹操がとりあげたことによって、五言詩はこれより後の魏晋南北朝時代を通じて詩の主流となり、それが唐代における詩の爆発的隆盛にもつながった。

 

●感想
改めて曹操の歴史を振り返ることで彼は、漢に変わる理想の国を造るのに邁進したと思いました。そして、文学によって人間改革を行っていったんだと思います。漢ではなし得なかった制度を作って民を作り、救うという志を実現しようとしていたと思います。
中国では毛沢東が自らの政治的立場や主張に合わせて曹操を肯定的に評価したことがあるそうです。曹操や魏の人物を高く評価するファンが増えているみたいです。曹操に対する評価がこれだけ大きな振幅で揺れ動く要因の一つとして、曹操という人物のスケールの大きさと多面性が挙げられます。
才能さえあれば採用されるという制度を設けるという今までの儒教の考えとは180度方向性が違う制度を導入するなど何が何でも今の政治を変えてやろうという意気込みや熱意が現代の日本の政治でも必要なのではないでしょうか。

 

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