1989年、ヨーロッパの東に位置するルーマニアという国で革命が起こりました。
かつて独裁者は市民を支配し貧しい暮らしをさせている中、自分と妻は豪華な宮殿に住み贅沢な日々を過ごしておりました。
こうした状況で市民と軍は立ち上がります。そしてわずか1週間ほどで独裁者を倒し新たな国家を作りました。
今回はそんなルーマニア革命についてざっくりご紹介したいと思います!
前回、フランス革命について投稿しましたので宜しければそちらについてもチェックしてみてください!!
●ルーマニアの位置
まずは革命の話に行く前にルーマニアの位置関係についてざっくり触れてきます。
ルーマニアはヨーロッパの東に位置するいわゆる東欧になります。
東側はモルドバ、ウクライナ、黒海に接しており、西側はハンガリー、セルビアと接している国になります。
場所的にはざっくりウクライナの近くにある国だと思えばイメージしやすいかもしれません。
●ボロボロの国、独裁者の贅沢な暮らし
今からざっと80年ほど前、第2次世界大戦がありました。
第2次世界大戦前まではミハイ1世という王様がルーマニアを治めていましたが、ソ連が攻めてきて王様は追い出されルーマニア王国からルーマニア社会主義共和国という国の偉い人が色々なことを決める社会主義の国になりました。
この社会主義国家の新しいリーダーは、ニコラエ・チャウシェスクという人物になります。
この人物は国家を運営する中で上手くいかず経済がボロボロになってしまったので外国からお金を借りました。
そして、この借金を返すために食料や燃料を外国にどんどん売っていったので国の中は貧乏になっていきました。
これを飢餓輸出といいます。
食べ物や冬の暖房用の燃料も無くなり、頻繁に停電が起こりました。
ルーマニアの国民達は不満を持ちましたが、これは借金を返すまでの一時的なものであると言われておりました。
しかし、その一方でチャウシェスクと妻のエレナは国民達を尻目に贅沢な暮らしをしていました。
ルーマニアの首都のブカレストには国民の館と呼ばれる豪華な宮殿を建てました。
そして、国の重要なポストには自分の身内を就かせました。
●秘密警察、軍と市民の不満
このチャウシェスクの独裁体制に不満を言う者はセクリターテと呼ばれる秘密警察に捕まって刑務所に入れられます。
セクリターテはそこらじゅうに盗聴器をしかけたり学校や職場にスパイを入れてチャウシェスクの悪口を言っていないか監視しました。
テレビや新聞もチャウシェスクに都合が悪いことは言いません。
ある日、ティミショアラという街で不満を持った人がデモを起こしました。
これに対してセクリターテは銃を使って鎮め多くの人が亡くなりました。
その5日後首都ブカレストの広場で10万人の人を集めてチャウシェスクを褒め称える集会が開かれました。
チャウシェスクが演説を始めると間もなく先日のティミショアラの事件に抗議する人が爆弾をしかけ爆発させました。
人々はパニックになり、チャウシェスクもうろたえました。
この様子はテレビ中継されていてその映像が残っております。
セクリターテはこの騒ぎを収めるために発砲してまたしても多くの人が亡くなりました。
チャウシェスクは軍隊にも発砲するように命じましたが、軍隊の責任者のワシーリ・ミリャは「国防軍は人民を守るための軍隊であるため人民に発砲はできない」としてこれを拒否しました。
次の日ミリャは自宅で亡くなりました。
国営ルーマニア放送はミリャは自殺したと報道しましたが市民や軍の人達はこの報道を信じませんでした。
●革命の狼煙、独裁者の最期
この一件により軍はブカレストの広場に集まっていた市民側に味方をしてあの豪華な宮殿である国民の館に迫っていきます。
チャウシェスクは妻のエレナと国民の館の屋上からヘリコプターで逃げましたが、パイロットが途中で着陸させたため仕方なく車で逃げようとしたところ捕まってしまいました。
フランス革命でルイ16世とマリー・アントワネットが馬車でオーストリアに逃亡しようとしたところ見つかってしまい捕まったというエピソードとなんか似てますよね。
こうして捕まってしまったチャウシェスク夫婦は簡単な裁判の後に死刑を宣告され、その日のうちに銃殺刑が執行されました。
秘密警察であるセクリターテは捕まって裁判にかけられたり民衆にリンチをされたり外国に逃亡したりしてルーマニアからいなくなりました。
年が明けて選挙が行われてルーマニアは社会主義国家から民主主義国家へと変わりました。
国民の館は今はルーマニアで人気の観光地となっています。
国民の館に集まる民衆と軍の映像はなんとyoutubeに残っておりますので興味がある方は是非チェックしてみて下さい。