1861年から1865年にアメリカ南北戦争が起こりました。
アメリカ南北戦争は国内で60万人の死者を出し、第一次世界大戦、第二次世界大戦以上のアメリカ人死者数を出すアメリカ史上最大の内乱になります。
この南北戦争を指揮し、北部を勝利に導き、アメリカを1つにまとめ上げた人物がエイブラハム・リンカーンになります!
今回は、そんなリンカーンと南北戦争について簡単にご紹介したいと思います!
●プロフィール
名前:エイブラハム・リンカーン
生誕:1809-1865(56歳没)
出生:ケンタッキー州
第16代アメリカ合衆国大統領
演説での「人民の、人民による、人民のための政治」が有名
アメリカ史上初めて暗殺された大統領
●リンカーンの生涯について
1809年、ケンタッキー州にて誕生する。
7歳の時、貧困と奴隷制を理由に一家で自由州(奴隷のいない州)であるインディアナ州に引っ越す。
9歳の時、母が毒草を食べた牛のミルクを飲んでしまい、亡くなってしまう。
10歳の時、父が再婚する。リンカーンはこの再婚相手の継母と良好の関係を築く。
10代幼少期、外で働いて得たお金を父に渡すという当時の習慣的義務を果たしていた。
22歳の時、自由な生活を求めて1人で生きていくことを決意。イリノイ州サンガモン(現マナード郡)に移り住む。
23歳の時、ブラック・ホーク戦争が始まる。イリノイ州の民兵隊に大尉として参加。この年のイリノイ州議会議員選挙で落選する。
25歳の時、イリノイ州議会議員選挙に2度目の出馬をし、見事当選する。
27歳の時、法廷弁護士として認められ、スプリングフィールドに転居する。
31歳の時、裕福な奴隷所有家の出身である女性と婚約する。
33歳の時、正式に結婚する。結婚式の準備中、どこへ向かおうとしているかを問われて「地獄へだと思う。」と答えていたとのこと。
34歳の時、長男が誕生。
37歳の時、次男が誕生。同年、ホイッグ党員としてアメリカ合衆国下院議員に選出される。
38歳の時、スポット決議起草によりポーク大統領に反対を強調する。
40歳の時、喫水の浅い水域で船を動かせる浮上装置の特許を取得する。特許権を得た唯一の大統領となる。
41歳の時、次男のエドワードが3歳で死去する。三男のウィリアムが生まれる。
44歳の時、四男のタッドが生まれる。
45歳の時、奴隷制擁護のカンザス・ネブラ法が成立する。ピオニアにおいてこの法に対する反対意見を表明する。
47歳の時、副大統領の党候補を決める投票で第2位となる。
49歳の時、スティーブ・A・ダグラスへの対立候補として上院議員選挙に出馬する。
50歳の時、ドイツ語新聞の「イリノイ・シュターツ・アンツァイガー」を買収する。
51歳の時、第16代アメリカ合衆国大統領となる。
52歳の時、第一次大統領就任演説を行う。同年、4月12日に南北戦争が勃発する。
53歳の時、ハーパーズ・フェリーの戦い、アンティータムの戦いが起こる。この後に奴隷解放宣言を発する。
54歳の時、ゲティスバーグの戦いで北軍が大勝利をおさめる。
56歳の時、アメリカ合衆国大統領に再選する。観劇中に俳優のジョン・ウィルクス・ブース(南北戦争の結果に不満を持つ南部連合の支持者)の狙撃に遭い死去する。
●エピソード、逸話
・子供の頃イソップ物語をよく読んでいて愛読書だった。
・幼い時に母親と姉が亡くなっている。
・学校へはほとんど通っておらず、独学で幾何学や法律を勉強した。学校へは合計で1年も通っていない。
・父親は農夫でリンカーンが読書をすることに無関心だった。また仕事を怠けてさえいると思っており、リンカーンに非常に強く当たっていた。
・身長は193cmで非常に大柄だった。マルファン症候群が要因とされている。
・髭をたくわえた最初の大統領
・特許権を得た唯一の大統領
・アメリカ史上初めて暗殺された大統領
・リンカーンは選挙の出る前は髭を伸ばしていなかった。ある日、若い女性から貰った手紙に髭を伸ばしたら顔の長さが目立たなくなると書いてあったため髭を伸ばしたとされる。
・生涯を通して北部のケンタッキー州→インディアナ州→イリノイ州に移り住む。
・リンカーンは健康状態が良くなくうつ病であった。マルファン症候群を発症していた。
・4人の子供を授かるが、成人まで生きたのはたった1人。次男のエディは3歳、三男のウィリーは11歳、四男のタッドは18歳で亡くなっている。
●南北戦争について簡単に解説
今からざっと160年前の1860年頃のアメリカは北と南に分かれて戦争を起こしました。
この戦争で南北合わせて60万のアメリカ人が亡くなったとされており、第一次世界大戦、第二次世界大戦以上のアメリカ人死者数を出すアメリカ史上最大の内乱になります。
ではなぜ北と南で争ったのでしょうか?
アメリカの北部は工業が盛んで、南部は農業が盛んでした。南部の農業には多くの人手が必要になるのでアフリカから黒人を連れてきて奴隷として働かせていました。当時は黒人奴隷を使うことはごく一般的でした。
ここでリンカーンがアメリカの大統領になります。リンカーンは「奴隷を使うことを禁止する」と言いました。
これに南部の人達は反対します。奴隷がいなくなってしまうと農業が出来なくなってしまうからです。アメリカは州という単位に分かれていてその州ごとに法律やルールが違います。
まず、南部のサウスカロライナ州がアメリカ合衆国から抜けました。続いてミシシッピ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州も抜けていきました。
そしてこれらの抜けた州で”アメリカ連合国”という国を作ります。リーダーはジェファーソン・デイビスという人になります。
この南部のアメリカ連合国にサムター要塞という要塞があり、この要塞の責任者が南部の連合国ではなく北部の合衆国に味方をすると言ったため、怒った連合国は攻撃することとなります。
これに対してリンカーン率いる北部の合衆国はサムター要塞を助けようとします。
ここで、奴隷を使っていたバージニア州、アーカンソー州、テネシー州は南部の連合国側に入りました。しかし、同じく奴隷を使っていたケンタッキー州、メリーランド州、ミズーリ州、ウェストバージニア州は合衆国に残りました。
こうしてアメリカは、北部のアメリカ合衆国 vs 南部のアメリカ連合国という構図になりました。これが南北戦争の始まりです。
この戦争は序盤から北部の合衆国が有利でした。合衆国は工業が中心なので武器は自分たちで作れ、人口も北部の方が南部より多くその分兵隊の人数も多いです。
対する南部の連合国は農業が中心なので武器は外国から購入しなくてはなりません。
鉄道のレールの幅も北部は同じだったのに対して南部はバラバラになっていました。
そのため、南部は食料や武器といった兵站を運ぶ際は載せ替えなければなりませんでした。
しかし、意外にも北部の合衆国はなかなか勝てませんでした。
これは合衆国の優秀な指揮官が連合国に行ってしまったり、連合国の方がやる気が高かったからだとされおります。
それでも合衆国側がなんとか有利になってきたところでリンカーンは”※奴隷解放宣言”をしました。
これで合衆国の奴隷たちは解放されて20万人ほどの黒人兵士たちが増えることとなります。
連合国はイギリスやフランスから援助してもらおうと考えていましたが、いまだに奴隷を使っているという理由から断られてしまいます。
そして合衆国は連合国の首都であるリッチモンドを落として1週間後に連合国は降参をしました。
こうして約4年間に及ぶ南北戦争は幕を閉じました。
南北戦争が終わった6日後にリンカーンはこの結果に不満を持つ俳優のジョン・ウィルクス・ブースに殺されました。
アメリカは1つになり黒人奴隷達は解放されましたが、黒人差別は未だに続いています。
※奴隷解放宣言:
これは、南北戦争の中盤までは「北部の奴隷たちは解放しなくてもいい。南部にいる奴隷達を解放しろ。」というものでした。
南部の奴隷達が反乱を起こしたら北部の味方になる。しかし、北部の方は奴隷達を扱う資本家達を敵に回したくないという思惑があったのです。
いわゆる北部にも南部にもいい顔をする。そして北部が勝てるようになった段階で黒人奴隷の解放を宣言することで国際的な世論を味方につけたのです。
この宣言には、リンカーンのしたたかな戦略があったのです。