ルイ16世、マリー・アントワネット、ヴェルサイユ宮殿は18世紀のフランスを語る上で欠かせない存在です。
「パンがなければケーキを食べればいいじゃない?」はきっと一度は聞いたことある人は多いのではないでしょうか。
こうした王家の言動や権力の象徴は民衆の怒りを買いやがて革命へとつながることになっていきます。
今回は現代社会に多大なる影響を及ぼしたフランス革命についてご紹介したいと思います!
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●王の支配
18世紀のフランスにおいて国王に権力が集中する体制を作り上げたのは、ルイ14世である。彼は、有力貴族に分散している権力を国王に集めた。
そして財政に問題がありながらもフランスのためということで侵略戦争を行っていく。
そして、財政難ではあったが王家の力を誇示するようなヴェルサイユ宮殿を建設したのもルイ14世であった。
侵略戦争は、王様が代替わりしても終わることなく100年ほどこの方針が進められていた。そのため、当然のように財政は悪化していきルイ16世の時にはフランス財政はどうにもならない状況にまで追い詰められていく。
この財政難にルイ16世も背を向けるわけにはいかず、増税の策に出るが、国民が平等に増税されたわけではなかった。
当時のフランス社会は旧体制の身分制度アンシャン・レジームが存在しており国王を頂点として、第1身分を聖職者、第2身分を貴族、底辺である第3身分を平民として明確なピラミッド式の身分制度が確立されていた。
割合で言うと、第1身分の聖職者と第2身分の貴族を合わせても人口の2%しかおらず、第3身分の平民が98%という割合で圧倒的多数を占めていたのである。
しかし、聖職者や貴族達は身分が高いというだけで免税扱いであり、平民のみ税金を課されていた。最終的には、呼吸をしただけで税金を取るいわゆる空気税などを庶民から集めていた。
さらに聖職者には平民から教会のために税を徴収する権利があり、そして貴族には農民への土地の貸出料を取る権利が認められていた。
平民は国からの重税に加えて教会への税や借地料の支払いなどで生活が苦しくヘトヘトであった。
しかし、聖職者や貴族は働かずとも収入がある上に納税の義務がなかったため贅沢な暮らしが出来た。
●ルソーの啓蒙思想の広がり
こうした状況により平民達の中に不満が蓄積していき、過去から続く習慣や信仰や迷信等に惑わされない倫理的な考え方がこの時期民衆の中に浸透し始めていく。
この新しい時代の考え方は啓蒙思想と呼ばれフランス出身であるルソーやモンテスキューのこうした考えは、民衆に大きな影響を与えていった。
ルソーは人間は皆平等であるという考え方を土台に皆の意見で国家とルールを作り、そのルールにのみ服従すべきであると唱えた。
一方、モンテスキューは権力の乱用を防ぎ国民の権利や自由を守る原則である三権分立の仕組みを考えた。
立法、行政、司法の3つに分けて権力の暴走に歯止めをかけることが出来ると主張したのである。
他にも、多くの啓蒙思想家が旧体制のフランスに疑問を持ち始め新しい民主的な近代国家の考え方を次々と提唱していく。
こうした思想家達の声が国民を革命へと駆り立てていくことになる。
●革命の始まり
啓蒙思想が広まる中で当時人口不足と天候不良により食糧不足が重なることで一般庶民に餓死者が出るほど苦しい状態となっており国民の不満は徐々に高まっていた。
また、平民だけに対する増税では財政が改善されずルイ16世はついに特権身分の聖職者や貴族への課税を検討する。
しかし、この課税に対して聖職者や貴族が反発しそれぞれの身分の代表が話し合う議会”三部会”が170年ぶりにフランスで開かれることとなる。
三部会には第1身分(聖職者)、第2身分(貴族)が各々300人ずつで第3身分(平民)からは600人の代表が集まった。
しかし、最重要である財政立て直しの議論に入る前に採決の方法を巡って身分間で対立が起こる。
第1身分(聖職者)、第2身分(貴族)は1人1票ではなく「1身分1票」の採決法を求めたのである。
しかし、これでは第1、第2身分が多数となってしまい、第3身分の平民が少数派になってしまうのは明らかであった。(聖職者、貴族2票 vs 平民1票で平民の負けは明白)
これに対して第3身分は1人1票ずつの採決法を求めたがこれに対して第1、第2身分が反発し一向に話がまとまらなかった。
こうした事態を嫌悪した第3身分は平民からなる国民議会という議会を立ち上げるようとしていく。
しかし、ルイ16世はこの国民議会を認めず第3身分を三部会から追い出してしまう。それでも第3身分達は諦めず、国民が集まればどこでも議場になるということを誓いテニスコート上に集まり自分たちで議論を始めていった。
この時の誓いは後に「テニスコートの誓い」と呼ばれることとなる。
●バスティーユ牢獄襲撃、立憲君主制へ
こうした事態に納得のいかないルイ16世はおよそ2万もの兵を集めて圧力をかけようとした。
しかし、そうした情報がパリに伝わると国民議会を支持する民衆が決起して武器や弾薬を手に入れるためバスティーユ牢獄を襲撃する。
バスティーユ牢獄は主に王政に反対する政治犯などを収容した刑務所であり、このバスティーユ牢獄は王政への反逆の狼煙となったためフランス革命の火蓋が切られることとなった。これにより革命への流れを感じた国民議会は農民と領主の身分関係の廃止を決議し国民の自由と平等を宣言する。
当初ルイ16世はこれを承認しようとしなかったが承認せざるを得ない出来事がヴェルサイユで発生する。それは6000人以上のパリの女性達がデモ行進を行いヴェルサイユになだれ込んできたのである。
このデモに完全に怯んでしまったルイ16世は国民議会の決議を承認し、その流れで国王一家はヴェルサイユからパリに連行されることとなり市民の監視下に置かれることとなった。
その後急速に変化する状況に不安を感じた国王一家は王妃のマリー・アントワネットの故郷であるオーストリアへの逃亡を図るがあえなく失敗する。この逃亡はルイ16世の権威と民衆からの信頼を完全に失墜させてしまった。
これにより議会では王を排除して国民によって選ばれた代表が政治を行う共和制にしようという声が上がるが、貴族議員達も今までの特権が無くなることを恐れ激しく反対し結局、今まで通り王の存在は認めた上で彼らの権力を別の権力によって制限しようという政治体制に収束する。
この政治体制を立憲君主制と呼び、いくら君主であっても憲法を違反することの出来ない状態にして権力の暴走を防ごうとする狙いがあるものである。
●共和制へ、ルイ16世処刑
しばらくして国民議会は立法議会へと名前が変わっていく。議会は立憲君主制派と共和制派に分かれて対立していた。
ルイ16世は立憲君主制により権力を制限されたものの未だ王としての力は失っておらず、権力を利用し政局をさらに停滞させるために議会では拒否権を幾度となく乱発し再び海外逃亡の機会を図ろうとする。
このルイ16世の行動に民衆は怒り、パリの国王一家の宮殿を襲撃する。この襲撃事件により王政が廃止されると立憲君主制派は力を失い、ついに共和制を推進する派閥が政権を樹立することになった。
ここから国民の中から選ばれた代表が政治を行う共和制がスタートし、政治問題が一息ついたころ次は国外での問題が発生する。
フランスで革命が起こると自分達の国でも国王の立場が逆転することを恐れたオーストリアやプロイセンなどの周辺国がフランスに攻めてきたのである。これを知ったフランス国民はフランス新政府軍と共に戦おうと立ち上がり、国民が一丸となって戦ったフランスはプロイセンを打ち破った。
この戦争の翌年、フランス国王としての力を失っていたルイ16世と王妃マリー・アントワネットは国民たちの目の前でギロチンにかけられ処刑されることとなる。
これはフランスで長年続いていた王政が完全に終わりを告げた瞬間となった。