アパルトヘイトとは何かご存じでしょうか。
おそらく聞いたことはあるという人はいらっしゃるかと思います。
南アフリカで人種差別を行った政策というのはなんとなくイメージでご存じかと思います。
しかし、実際どういった政策でどういった流れで起きたのか詳しく把握している方は少ないかと思います。
今回はこのアパルトヘイトに挑んだ南アフリカの英雄”ネルソン・マンデラ”について簡単にご紹介したいと思います!!
(この記事は、『アパルトヘイトを終焉させた英雄 ネルソン・マンデラ(筑摩書房)』を参考にしております。)
●プロフィール
本名 ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ
生誕 1918ー2013(95歳没)
出生地 南アフリカ連邦 トランスカイ ムヴェゾ
第8代南アフリカ共和国大統領、ミドルネームのホリシャシャはコーサ語(南アフリカ共和国の公用語の1つ)で”トラブルメーカー”の意味。
●ネルソン・マンデラと南アフリカの歩み
1899年 第2次ボーア戦争が勃発する。
1910年 南アフリカ連邦が成立する。
1913年 原住民土地法が成立する。この法により、黒人は黒人居留地以外での土地所有や貸借が不可能となる。
1918年 ネルソン・マンデラが誕生する。南アフリカ連邦トランスカイのムヴェゾにてテンブ人の首長であった父の下に生まれる。
1927年 9歳の時、父が亡くなり、テンブ王家の摂政ジョンギンタバに引き取られる。
1939年 21歳の時、フォートヘア大学に入学する。1学年上に後に第10代アフリカ民族会議議長となるオリヴァー・タンボが在籍。
↑オリヴァー・タンボ
1941年 23歳の時、フォートヘア大学を退学し、ヨハネスブルグに出て法律事務所で働きながら南アフリカ大学文学課程の通信教育を受ける。同年、後にマンデラとともに懲役生活を送る人物であるウォルター・シスルと出会い徐々に政治に目覚める。
↑ウォルター・シスル
1942年 24歳の時、アフリカ民族会議ANCに加入する。会議というが実態はアフリカ人の解放と平等を目指す政治的組織、政党でもあり、その主要な担い手は、法律家、教員、聖職者、ジャーナリストなどの少数のアフリカ人エリート層であった。
↑ANCの旗
1943年 25歳の時、通信教育を受けていた南アフリカ大学を卒業する。同年、ウィットウォーターズランド大学の法学課程に入学する。
1944年 26歳の時、ANCの内部に青年同盟を設立する。エヴリン・ントコ・マセと結婚し、長男テンビ、長女マカジウェ、次男マハト、次女マカジウェの4人の子供をもうける。長男テンビは1969年に交通事故で亡くなり、長女マカジウェは生後9か月で亡くなり、次男マハトは2005年にエイズで亡くなる。
1945年 27歳の時、第2次世界大戦が終わる。
1948年 30歳の時、総選挙で国民党が勝利し、以後アパルトヘイト政策が強化されていく。
「この海水浴場は白人種集団に属する者専用とされる」と表記された看板
1951年 33歳の時、ANC青年同盟の代表になる。
1952年 34歳の時、ANCトランスヴァール州代表に選出されANC副代表となる。不服従運動を展開し、活動禁止命令を初めて受ける。同年、オリヴァー・タンボとともにマンデラ&タンボ法律事務所を開く。
1955年 37歳の時、自由憲章が採択される。自由憲章とは、反アパルトヘイト体制をとるアフリカ民族会議(ANC)、南アフリカ・インド人評議会(SAIC)をはじめとする組織によって採択された憲章。
1956年 38歳の時、自由憲章に関わった155人とともに反逆罪で起訴される。以後、裁判は4年続く。
1957年 39歳の時、エヴリン・ントコ・マセと離婚する。同年、ガーナが独立する。
1958年 40歳の時、ノムザモ・マディキゼラ(ウィニー)と結婚する。長女ゼナニ、次女ジンジの2人の子供をもうける。
↑ノムザモ・マディキゼラ(ウィニー)
1959年 41歳の時、ロバート・ソブクウェがANCを脱退し、パンアフリカニスト会議(PAC)を設立する。PACとは、ANCから分離し、創設された南アフリカ共和国の解放組織、政党。
1960年 42歳の時、シャープビル事件が勃発する。シャープビル事件とは、パス法(アフリカ人が白人地域に入る際に身分証明書の携行を強制した法律)に反対の集会をしていた数千の数の黒人に向け、白人警官が一斉発砲し69人が殺され、186人が負傷した事件のこと。この事件により、非常事態宣言が出されマンデラは身柄を拘束される。
↑シャープビル事件
1961年 43歳の時、南アフリカがイギリス連邦から脱退し共和国となる。反逆罪で起訴されていたマンデラは無罪となる。ANCが非暴力路線を改め、軍事部門ウムコント・ウェ・シズウェ(MK)を設立し、マンデラは司令官となる。
1962年 44歳の時、アフリカ諸国とヨーロッパを訪問し、エチオピアで軍事訓練を受ける。帰国後に逮捕され5年の実刑判決を受け服役する。
1963年 45歳の時、MKのリボニアの本部が発覚し、再逮捕される。
1964年 46歳の時、リボニア裁判で終身刑の判決を受け、ロベン島の刑務所に送られる。
↑ロベン島
1975年 57歳の時、モザンビークとアンゴラが独立する。ベトナム和平が成立する。
1976年 58歳の時、ソウェト蜂起が発生。ソウェト蜂起は、白人系の言語が教育に導入されることに抗議してヨハネスブルグ近郊の黒人居住区「ソウェト」で高校生たちが中心となって起こしたデモのこと。警察隊が発砲し、13歳の少年をはじめ多数が死傷し、南アフリカ全土の騒乱に発展した。
↑ソウェト蜂起
1977年 59歳の時、黒人意識運動(BCM)の創設者であるスティーヴ・ビコが警察の拷問によって死亡する。
1982年 64歳の時、マンデラとシスル達がボールズムーア刑務所に移送される。
1985年 67歳の時、政府からの条件付き釈放の申し出を拒絶する。政府との交渉に向けANCと協議を開始する。
1987年 69歳の時、ソ連でペレストロイカが始まり、アメリカで反アパルトヘイト法が成立する。世界中から南アフリカへの経済制裁が強化される。
1988年 70歳の時、マンデラの70歳の誕生日を祝う大規模コンサートがロンドンで開催される。
1989年 71歳の時、ボタ大統領と会見し、デクラークが大統領に就任する。同年、ウォルター・シスルらが釈放される。ベルリンの壁が崩壊し、東欧諸国があいついで民主化する。
1990年 72歳の時、27年ぶりにマンデラが釈放される。湾岸戦争が発生する。
1991年 73歳の時、ANC議長に就任する。
1993年 75歳の時、マンデラとデクラークの両氏がノーベル平和賞を受賞する。
↑ノーベル平和賞受賞の2人
1994年 76歳の時、初の全人種参加による総選挙でANCが勝利し、マンデラが大統領に就任する。
↑大統領に就任
1996年 78歳の時、新憲法を採択し、真実和解委員会の公聴会が始まる。真実和解委員会とは、アパルトヘイト体制下で行われた政治的抑圧や人権侵害の真相を明らかにし、被害者の復権を目指すと共に民族和解を達成するために設置された委員会のこと。同年、ノムザモ・マディキゼラ(ウィニー)と離婚する。
1998年 80歳の時、モザンビークの故マシェル大統領の未亡人であるグラサ・マシェルと結婚する。
1999年 81歳の時、大統領の任期を終えて引退する。ネルソン・マンデラ財団を設立する。
2002年 84歳の時、エイズ撲滅キャンペーンを開始する。
2009年 91歳の時、国際連合がマンデラの誕生日である7月18日を「国際ネルソン・マンデラ・デー」に制定する。
2013年 95歳の時、ヨハネスブルグの自宅で死去する。故郷ムヴェゾに葬られる。
●アパルトヘイトまでの経緯
南アフリカに住む白人には2つのルーツがあります。1つは、17世紀にオランダからやってきた白人。もう1つは、19世紀以降にイギリスからやってきた白人達です。
ものすごく簡単に誤解を恐れずにいうと、「オランダ系は人数が多くて貧しい。イギリス系は人数が少なくて裕福。」というイメージになります。
アパルトヘイトの成立にはこの2つのグループの対立が深く関係しています。
まず、オランダからの入植の始まりは、1625年に世界初の株式会社として知られるオランダ東インド会社の一行がアフリカ大陸の南端であるケープ地方にやってきたことからです。
なぜやってきたのでしょうか。彼らはヨーロッパからインドへ向かう航海のための補給基地をアフリカ大陸の南端に作るためにやってきたのです。補給基地を作った後も彼らの一部はケープ地方に残り、その後もオランダから移民がやってきました。この移民達はオランダでは比較的下層階級の人々でした。またオランダ人以外にも宗教弾圧によって本国に居場所を失ったドイツ人カトリックや、フランス人プロテスタントの人々も南アフリカにやってきました。こうした移民達は先住民の土地を奪い、奴隷を使って100年、150年と時間をかけてじわじわと農地を広げていきます。そして代を重ねるうちに本国オランダとの絆は薄れていき言葉も変形し、”アフリカーンス語”と言われる独特の言語になりました。これがオランダからやってきた白人の流れになります。
次に、イギリスからの白人の入植はナポレオンが皇帝になり南アフリカにも進出するのではないかと警戒したイギリスが艦隊を率いてケープを占領したことから始まります。圧倒的な軍事力と大量の移民によって先住民であるコーサ人達は駆逐され先に来ていたオランダ系住民もあっという間に支配される立場に転落してしまいました。その後、イギリスが奴隷制の廃止を宣言すると、奴隷に頼る暮らしが身についていたオランダ系のアフリカーナー達は反発し、イギリスの支配が及ばない内陸部へ移動していきました。19世紀後半にはイギリスが沿岸部を支配し、オランダ系のアフリカーナーは内陸部で2つの共和国を支配するという構図となっていました。
イギリスにとっては補給港ぐらいに思っていた南アフリカでしたが、オランダ系アフリカーナーのいる内陸部でダイヤモンドと金が見つかったことで一挙にパワーバランスは崩れていくことになります。
1899年、全面戦争であるボーア戦争によってイギリスvsオランダ系アフリカーナーが勃発したのです。この戦争の国際世論はイギリスに批判的でオランダ系アフリカーナーにむしろ同情的でした。日本からも、武官が派遣されており、その経験が日露戦争に生かされることになります。戦争はイギリスが勝利しましたが双方にとって多くの死者を出す悲惨な結果となりました。この時、イギリス軍はアフリカーナ―の農場を焼き尽くし、女性や子供といった一般市民を強制収容所に連行しました。このことはオランダ系アフリカーナ―達に忘れられないトラウマを残しました。
問題は続いてこのボーア戦争後の処理になります。
勝利したイギリスは1910年に、イギリス連邦の中の独立国として南アフリカ連邦を成立させます。
このときの南アフリカの総人口は約600万人、その中の白人は130万人、その白人の中の2/3がオランダ系のアフリカーナ―になります。しかし、両者の経済格差ははっきりしており、いわゆる工場・銀行などの産業資本のほとんどはイギリス人のもので、農民・労働者といった底辺層の白人のほとんどがオランダ系のアフリカーナ―でした。
イギリスはこの”プア・ホワイト”と言われる底辺層のオランダ系の白人を南アフリカ国民という組織としてそれまで存在しなかった集団を作りあげることになります。そこでカードとして使われたのが黒人の地位になります。イギリスは、黒人達に選挙権を与えないどころか黒人の土地を法律で奪ってアフリカーナ―に再分配し、黒人の雇用を未熟練労働に限定してオランダ系のアフリカ―ナーの産業、雇用、賃金を保護しました。
以後南アフリカは、「政治はオランダ系のアフリカーナー、経済はイギリス人」という緩やかな住み分けで、かつ首相にはイギリス寄りのアフリカーナ―の人物が就任するという巧妙なバランスで国を運営していくこととなります。これが黒人差別を拡大させていき、後のアパルトヘイトに繋がることになった経緯になります。
まず何よりも、自分に正直でありなさい。自分自身を変えなければ、社会に影響を与えることなど決してできません。偉大なピースメーカーはいずれも、誠実さと正直さ、そして謙遜さを兼ねた人たちです。
生きるうえで最も偉大な栄光は、決して転ばないことにあるのではない。転ぶたびに起き上がり続けることにある。
教育とは、世界を変えるために用いることができる、最も強力な武器である。
私は学んだ。勇気とは恐怖心の欠落ではなく、それに打ち勝つところにあるのだと。勇者とは怖れを知らない人間ではなく、怖れを克服する人間のことなのだ。
こんな言葉がある。刑務所に入らずして、その国家を真に理解することはできない。国家は、どのように上流階級の市民を扱うかではなく、どのように下流階級を扱うかで判断されるべきだ。