【ガイウス・ユリウス・カエサル】古代ローマ最大の英雄の生涯とは!?

教養/豆知識

世界史を語る上で古代ローマは欠かせない存在です。

コロッセウム、パンテオン、パラティーノの丘といった遺跡があり、現在も人気の観光地となっております。

また古代ローマを語る上で欠かせない人物といえば”ガイウス・ユリウス・カエサル”です!

ご存じの方もおられると思いますが、古代ギリシャのアレクサンドロス大王のように古代ローマを代表する人物になります。

今回はそんな古代ローマを代表する人物カエサルについてご紹介したいと思います!

 

●プロフィール
名前 ガイウス・ユリウス・カエサル(英語名:ジュリアス・シーザー)
出身 イタリアのローマ
出世 紀元前100年頃~紀元前44年(紀元前102年に生まれたという説もある)

 

●生涯
・カエサルの誕生➡青年期
カエサルは紀元前100年にイタリアのローマにて当時のローマでも有数の名門の貴族の下で生まれる。
父は息子と同じ名前のガイウス・ユリウス・カエサルである区別するために大カエサルとも呼ばれている。大カエサルは元老院議員で古代ローマの政務官職の1つであるプラエトルを務めた後、アシア属州の属州総督を務めた人物であった。母の名前はアウレリア・コッタといい祖先に幾人の執政官を輩出した名家の出身であった。
この当時のローマの国内政治状況は共和制であり、元老院に権力が集中していた。カエサルの青年期にあたる紀元前90年代~80年代はローマが戦乱に明け暮れる時代で同盟市戦争、ミトリダテス戦争がありその影響でローマ国内も政治的に不安定でいわゆる保守派の閥族派と民衆派が対立していた。
民衆を中心とした選挙政治を支持するポプラレス(民衆派)と、貴族を中心とした寡頭政治を支持するオプティマス(閥族派)の2つの政治勢力が対立していたのである。それぞれの中心人物として民衆派であるポプラレスには大カエサルの義理の弟のガイウス・マリウス、閥族派にはルキウス・アウレリウス・コッタが活躍していた。
紀元前84年、父の大カエサルが亡くなったことによってカエサルは16歳でカエサル家の家長となる。紀元前83年、17歳の頃に神の儀式のお手伝いをする役職である神祇官になる。神祇官になるには貴族と結婚しないとなれなかったため、カエサルは結婚していた騎士階級の娘と別れて民衆派の実質No.2の地位にいたキンナの娘と結婚した。これにより、カエサル自身も民衆派の女性と結婚したため自動的に民衆派とみなされた。

・スッラの支配➡カエサル逃亡
民衆派の娘と結婚して順風満帆な人生かと思いきやそう長くは平穏な生活は続かなかった。
カエサルが神祇官を務めると同時に、民衆派と対立する閥族派の中心人物であるスッラが終身独裁官となったことにより閥族派の勢力が急激に拡大していったのである。さらに民衆派の中心人物であった大カエサルの義理の弟のガイウス・マリウスが3年前に亡くなったことで民衆派は力を失っていた。
スッラはこの機を逃さず対立する民衆派を次々と粛清していくこととなり、民衆派であるカエサルも閥族派のスッラに冷遇されてしまう。カエサルは粛清の対象内であったが、当時はまだ18歳で政治活動をしたことがなくスッラの支持者でローマで尊敬されていた巫女からも助命を嘆願されたため粛清されずに済むこととなる。
しかしスッラは納得がいかなかった為、キンナの娘と別れるようにカエサルに迫るがカエサルはこれを拒否する。これにより、カエサルはスッラから逃れるため地方の小アジアやアカエアに亡命することとなるが、5年間の亡命の後、スッラが死んだことでカエサルはローマに戻ってくる。
紀元前80年、スッラが終身独裁官を辞めたときに当時20歳のカエサルは「スッラは政治のイロハを分かっていなかった」と評価している。(まるでカエサル後半の生涯のフリとなる言葉である。)

 

・属州監督の告発➡カエサル逃亡
当時のローマは脅迫や賄賂が横行しており、カエサルは巧みな話術を生かして属州監督を次々と告発していき民衆からの人気を高めていった。
しかし、執政官であるドラベッラの告発をすると失敗してしまい、紀元前75年当時25歳のカエサルは報復を恐れロドス島に逃亡する。そしてそこで修辞学(読者を感動させるのに最も有効な表現の方法を研究する学問)の権威であるアッポロニウス・モロンの下で勉強する。
このロドス島への逃亡中にエーゲ海でギリシアの海賊に捕まってしまう。海賊は身代金として20タラントを要求したが、カエサルは20タラントでは安すぎるため50タラントにするよう逆に海賊に要求する。1タラントは現在の日本円でおよそ3000万円とされているので、カエサルは6億円から15億円を要求するよう海賊に言い放ったことになる。またカエサルは海賊に「磔刑にしてやる」と言った後、身代金が支払われ無事解放されると即座に海軍を収集し追跡させて海賊達を捕えてから有言通り実際に磔刑にした。

・政治家として活躍➡執政官に
ロドス島でアッポロニウス・モロンから修辞学を勉強したカエサルは紀元前73年の27歳の時にローマに再び戻る。ローマに戻ったカエサルは軍団司令官となり順調にエリートコースを歩んでいき、紀元前69年の31歳の時に財務官に就任する。この時期、カエサルはヒスパニア(現スペイン)に訪問した際にアレクサンドロス大王の像を見て「俺はアレクサンドロス大王の死んだ年になったのにまだ何も成し遂げていない」と言って偉業達成への意気込みを入れる。
財務官の人気を終えたカエサルは元老院の議席を得て紀元前65年の35歳の時に主に公共建築の管理、ローマの祭儀の管理を行う上級按察官に就任して順調に政治家としての地位を固めていく。
その後、紀元前63年に最高神祇官であったメテッルス・ピウスが亡くなったため次の最高神祇官の選挙が始まる。本来神祇官で最も権威と実績を持った高齢者がなる役職だったが、この役職に目を付けたカエサルは多額の費用を投じて立候補する。多額の費用を投じたこともあり、カエサルは37歳という若さで最高神祇官に就任する。そして紀元前62年、38歳の時に当時の共和制ローマで2番目の地位に当たり司法を担当する法務官となる。38歳で国のNo.2にまで上り詰めたのである。
そして紀元前61年、39歳の時にヒスパニア・ウルステリオル属州総督として就任しルシタニ族、ガッラエキ族といった部族を次々と討伐しローマに服従させて莫大なお金を得る。翌年の60年、40歳の時にカエサルはポンペイウスと協力して執政官であるコンスルに両者とも当選し事実上の共和制ローマの国家元首となる。執政官のコンスルは平時は内政の最高指揮者として政治を行い、戦時は軍の最高指揮者として軍を指揮するというまさに国家元首にあたる存在であった。
執政官のコンスルの最も大きな特徴は、国家元首であるが定員が2名であるということである。これは、やれることが多く権力の乱用による独裁政治を防ぐために定員を2名にしたのである。

 

・第1回三頭政治➡ガリア戦記
執政官となったカエサルだが、ポンぺイウスに比べて実績や実力が足らず意見が出た場合ポンペイウスの意見が優先される可能性が高いと危惧したカエサルは均衡を保つためにスッラ派の重鎮であり莫大な資産を築くクラッススを引き入れる。
こうして民衆派として市民から絶大な支持を得ているカエサル、元軍団司令官として圧倒的な軍事力を持つポンペイウス、スッラ派の重鎮として莫大な資産を持っているクラッススの3人が上手くバランスを保ち第1回三頭政治が始まることとなる。これにより、元老院に対抗できる勢力を確保した。
そして、紀元前58年、カエサル42歳の時執政官の人気を終えて元執政官の資格を得たカエサルはガリア・キサルピア、ガリア・トランサルピナなどの属州監督に就任し、同時期にローマはガリア戦争を起こす。ガリアは現在のフランスあたりである。
このガリア戦争でカエサルは新兵は新軍団で構成し、既存の軍には新兵を補充しないという独自の方針をとったため、この戦争で多くの勝利を得ることが出来カエサルは大いに名声を高めることとなる。また、この戦いで兵士はローマよりもカエサル個人に対して忠誠心を抱くことが多くなり、カエサルについてくる兵士も非常に多くなった。ガリア戦記という書物としても残っておりカエサルは自分の活躍を記録に残していた。
一方、スッラ派の重鎮として莫大な資産を持っているクラッススはローマの東にあたるパルティア(現在のイランあたり)で戦うが戦死してしまう。

・三頭政治の崩壊➡ローマ内乱
紀元前53年、三頭政治の一角を担うクラッススが戦死し残ったのはカエサルとポンペイウスの2人だけとなり、三頭政治のバランスが崩れ始める。さらにポンペイウスが民衆派の敵である閥族派に急接近することによってカエサルとの仲はどんどん悪化していくこととなる。
そして、紀元前49年カエサル51歳の時、ポンペイウスを含む閥族派がカエサルのガリア属州監督を解任したことを機にカエサルを含む民衆派と内戦状態に突入する。ローマを占拠しようと軍を率いていたカエサルは「賽は投げられた」と発言し、ガリアとローマの国境にあるルビコン川を渡ったとされる。この「賽は投げられた」は後戻りは出来ないという意味である。
ルビコン川を越えたカエサルはローマを制圧するためにイタリア半島に向かい軍を進めていき、ポンペイウスは軍を用意できておらずローマから逃れて自身の勢力基盤であるギリシャに移動したためローマを含むイタリア半島をあっさり制圧する。
紀元前48年カエサル52歳の時、カエサルはギリシャに向けて進軍を開始しギリシャでポンペイウスと戦うこととなる。この戦いでカエサル軍は大損害を受けてカエサル自身も殺されかけるがポンペイウスが運よく撤退したためになんとか九死に一生を得る。そしてその2か月後、準備を整えたカエサル軍はポンペイウス軍とファルサラスで再び戦いを始める。このファルファラスの戦いは始まった当初は両軍拮抗していたが、寄せ集めの兵で構成されていたポンペイウス軍は兵士の士気が徐々に下がりどんどん苦しい状況となったいったのに対し、カエサル軍は軍の数は少ないながらも熟練の兵士で構成されており兵士の士気も質も非常に高かったため決着はついていたが、ポンペイウス軍は降伏したが、肝心のポンペイウスは降伏する寸前にエジプトに逃亡しカエサルはポンペイウスを捕まえることは出来なかった。
しかし、ポンペイウスはアレクサンドリアに上陸する際にエジプト王朝であるプトレマイオス13世の側近にあっけなく殺されてしまう。こうしてカエサル対ポンペイウスの戦いは民衆派であるカエサルの勝利で幕を閉じる。

・クレオパトラとの出会い
エジプトは当時世界三大美女であるクレオパトラがおり、カエサルはクレオパトラに心を掴まれ彼女をエジプトの女王にする。
経緯としては、ポンペイウスがエジプトのプトレマイオス13世の側近に殺されたことを知ったカエサルは、エジプトの争いを収めるために軍を率いてエジプトに向かう。この当時のエジプトは王位をめぐってプトレマイオス13世とクレオパトラが争っておりカエサルはその争いを収めようとしていた。当初カエサルは仲介するために努力していたが、プトレマイオス13世がカエサル軍を攻撃したことによりクレオパトラ側に付く。クレオパトラ側に付いたカエサルは軍はナイルの戦いでプトレマイオス13世を打ち破りクレオパトラが王位に就くことになる。その後カエサルは親密になったクレオパトラとエジプトで過ごした。
しかし、紀元前47年カエサル53歳の時、小アジアにいたカエサルの配下がポントス王ファルネケス2世にやられたため、カエサルはファルケネス2世を討伐するためにエジプトを出発することとなりゼラでファルケネス2世を打ち破る。

 

・カエサルの独裁➡カエサル暗殺
エジプトから戻ってきたカエサルは民衆に熱烈に歓迎されて帰還する。そして、ローマで莫大な支持を得ているカエサルは共和制の改革に着手していく。
まず、元老院の議席を増やすことで政府権力を低下させ、現在で国会に値する民会(立法機関)をないものいわゆる有名無実化にした。そうすることで自らに権力を一点集中させ、ローマの統治能力の強化を図った。さらにカエサルは「共和制ローマは名前だけに過ぎない」「私の発言は法律とみなすべき」と発言したり、共和制ローマを痛烈に批判しかつ独裁的な発言をしている。そして、カエサルは終身独裁官であるディクタトールとなりさらに権力の一点集中化を図っていく。当時、本来護衛を付けねばならない立場にも関わらず身の安寧を心配していると行動出来ないといった理由でカエサルは護衛をつけなくなっていた。
一方、カエサルによって権力を弱められた元老院はこれを良く思わず、カエサルの暗殺団を作ることになり、この暗殺団の中に腹心の部下であるブルータスがいたのである。
紀元前44年、カエサルはローマの統治体制を協議する予定で元老院外で待機していた時に腹心の部下ブルータス達によって暗殺されることとなる。この時「ブルータス、お前もか」という有名な言葉を残している。

●カエサルと言えば?カエサルを知る上でのキーワード
アレクサンドロス大王をリスペクト
・帝王切開の名前の由来
・借金王
・ハゲでも女性からモテモテ(クレオパトラと恋仲)
・フランスの英雄ナポレオンが挙げる人類史英雄7人の内の1人に選ばれる(神7のひとり)
・「ブルータス、お前もか 」「賽は投げられた」

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