【アダム・スミス】『国富論』についてざっくり解説!神の見えざる手とは!?

教養/豆知識

アダム・スミスという名前や国富論という言葉を聞いたことがある人は多くいらっしゃると思います。しかし、アダム・スミスは何をした人なのか?あるいは国富論の内容とは何か?についてはあまり知らないという方がきっと多いのではないでしょうか。
今回は、3大経済学(アダム・スミス、カール・マルクスジョン・メイナード・ケインズ)の一つであり、資本主義の開拓者であるアダム・スミスについて簡単にご紹介したいと思います!

 

◇プロフィール
名前 アダム・スミス
出身 スコットランド東部の港町カーコーディ
出世 1723-1790(67歳没)
国富論著者 資本主義の開拓者 GDPのパイオニア

 

◇アダム・スミスの生涯
少年時代、釘の製造場をのぞきに行き、職人達が作業工程をいくつかに分けて釘を製造している光景に見入っていた。いわゆる分業によって能率よく釘をつくっていることに気付いた。また、釘づくりの職人達が賃金を釘で支払われ、近所の商店で買い物するときに貨幣の代わりに釘で支払いをしていることも知る。こうした光景は、アダム・スミスが分業や代価の支払いの意味を理解する最初の体験となる。
1737年、14歳の時、グラスゴー大学に入学し、道徳哲学教授のハチソン博士の影響を強く受ける。
1740年、17歳の時、オクスフォード大学の奨学生となる。スコットランドから馬車でイギリスのオクスフォードに通う中、農業や牧畜の遅れたスコットランドに対してはるかに進んだイングランドの風景を眺めて衝撃を受ける。オクスフォード大学の食堂で目にした皿の上の肉切れにも仰天し、こうした経験から経済学に引き寄せられていった。オクスフォードの6年間の学生生活は陰鬱なものであり、スコットランド出身の奨学生達は色々な場面で差別待遇を受け学内の政治闘争にも巻き込まれた。こうしたことから、1746年、23歳の時、故郷カーコーディに戻り以後2度とオクスフォードに戻らなかった。
1748年、25歳の時、カーコーディとは湾をはさんだ対岸に位置するエディンバラで言語表現や弁論法などの研究と文学の公開講義を行い、好評を博し、母校グラスゴー大学の論理学教授に迎えられることとなる。翌年には、尊敬するハチソン博士の道徳哲学の教授となる。
1763年、40歳で大学を辞任し、3年間ヨーロッパで過ごし、帰国して10年ほど後の1776年、53歳の時に近代経済学の開祖へと導く主著『国富論』を発表する。豆知識として、国富論が発表された1770年代は、イギリスでは紡績機や実用的な蒸気機関が発明され、産業構造が変革しつつあった。
国富論とは、文字通り国家の富を増やすにはどうすべきかを論じたものである。

国富論でアダム・スミスが主張している第一の問題は、「経済活動に対して国家が様々に規制することには根拠がなく、むしろ逆効果だ」というものがあった。当時は、国は輸出を増やし、輸入には抵抗すべきという重商主義がまかり通っていた。アダム・スミスはこうした規制を廃止して自由な物資交換や貿易を行えば、誰もが良い結果を手にすると述べた。「生産物やサービスの流れそのものが富である」と述べている。これは20世紀後半になりGNPやGDPと呼ばれているそのものである。彼はGDPのパイオニアなのである。心理学として「経済活動を自由にさせておけば、人間は利己的な心によって富を築き、そこに”見えざる手”が働いて社会の調和が生み出される」と述べている。
利己的な心とは、人間が生まれつきもっているモラルの上に立った心という意味。それが”見えざる手”となって働き、結果的に社会全体の利益が生み出されるというものである。そして、分業と資本の蓄積が生産力の向上をもたらすという見方についても記している。
この見えざる手という言葉は、”神の見えざる手”という表現で頻繁に解説されているがこの日本語の表現は間違っている。英語の”インビジブル・ハンド”はそのまま”見えざる手”であり、神のという意味は含まれていない。翻訳者たる経済学者が日本的解釈を持ち込みそれが鵜呑みにされていると言われており、誰であれそこに神を持ち出してはいない。
子どもの頃に近所の釘製造場で目にした光景がよほど印象深かったと推測される。彼は、「生産工程をいくつもの小さな作業に分割し、それぞれを専門的な熟練者が受け持つことで高い生産効率が生まれることで企業は利潤を増やし、資本を蓄積し、その余剰分を投資してより効率的な機械化を実現出来る。そして、資本を蓄積し、それを上手く管理し、かつ保護する国家こそが繁栄し、さらにこうしたシステムは自由貿易と競争によってのみ自動的に達成される。」と記している。アダム・スミスは政府のあり方について、「政府の経済活動への関与は限られるべきだ」と述べている。

政府は、
①国の防衛力の維持
②社会秩序の保持
③インフラストラクチャーの構築
④教育の奨励

をなすべきだとし、市場は解放的で自由でなければならないと述べている。自由な経済は柔軟で適応性の高いシステムであるとしている。こうした思想を実現した経済システムが資本主義である。現在の西欧や日本はもとより、こと中国においても政治は共産党独裁だが、経済は資本主義的という奇妙な国も少なからず存在する。これは、経済は資本主義的にならざるを得ないことを実証している。
18世紀のイギリスは啓蒙思想の時代と重なっており、中世以来のキリスト教会の宗教的権威主義やさまざまな旧弊が徹底的に批判され、合理的で批判精神にもとづく多様な考え方が噴出した時代。アイザック・ニュートンが登場したのもこの時代であり、自然科学の時代の始まりである。
アダム・スミスはこの時代の潮流に乗ることで、まったく新しい経済思想を生み出していくこととなる。その思想に至るまでに、当時の数人の先駆者から影響を受けており、最も影響を受けたのは、フランスの重農主義者フランシス・ケネーであり、ケネーは重商主義を初めて批判した人物である。
重農主義とは、18世紀後半のフランスで、ルイ15世の治世の下での戦争と王権による贅沢によって、経済や社会が疲弊した頃に発生したものであり、富の唯一の源泉は農業であるとの立場から、農業生産を重視する理論である。
1763年、40歳で教授職を辞めて大物政治家の息子の家庭教師を引き受けてヨーロッパに旅立ったアダム・スミスは、フランスでこのフランス・ケネーという人物に出会う。先ほど述べたように、彼は旧来の重商主義から重農主義へと転換させようとしており、その時に出会った言葉が“レッセフェール”(なすがままに任せよ、さすれば世界は勝手に回るという自由放任主義)である。
こうしてイギリスに戻ったアダム・スミスは1776年に『国富論』を出版し、たちまち大成功を収めることになった。それから10年余り後の1790年、病に苦しんだ後、67歳にしてこの世を去る。アダム・スミスは生涯独身を通し、人生の大半を母親と暮らしたという。

 

◇アダム・スミスの言いたいこと
・価値は労働によって決まる。
・分業することで、労働によって生み出される価値は爆発的に増大する。
・農業こそが国の富の根源である。国の富は畑から湧いてくる。余った飯が集まって農業以外の産業が生まれる。
・中央政府は上から規制するのではなく自由に働かせることで結果的に全ての人に最大の利益が得られる。いわゆる「小さな政府」が求められる。
・しかし、中央政府は何もしないでいいのではなく、税金を使って軍事と法と公共事業をすることである。
・「個人の自由な利益追求行動」が「社会全体の富」を増大させる。
・市場には、需要と供給のバランスを調整する機能がある。通称神の”見えざる手”が働いているというもので価格の自動調節機能がある。


 

◇感想
1790年にこの世を去ったアダム・スミス。それから暫くしてカール・マルクスが誕生し、マルクス経済学が生まれ、そしてマルクスが亡くなってからケインズが誕生し、ケインズ経済学が生まれます。マルクス経済学はアダム・スミスが開拓した「資本主義」の真逆である、「共産主義」を唱え、そしてケインズ経済学は、アダム・スミスが提唱したいわゆる「小さな政府」ではなく、「大きな政府」の必要性を説きました。
しかし、アダム・スミスの開拓した資本主義や分業による生産性の向上といった思想は未だに世界を席巻しており、その功績は計り知れません。様々な経済学の基礎を作ったアダム・スミスはこれからも世界経済を考える指標となり続けるでしょう。

 

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