【なぜ中国は周辺諸国と揉めるのか!?】中国の大きなプライドと大きなトラウマ

教養/豆知識

中国はなぜこんなに周辺諸国と揉めるのでしょうか!?
中国は日本と尖閣諸島、ベトナム・フィリピンと南沙諸島の領有権、チベット、新彊ウイグル自治区、香港などと領有権争いを繰り返しております。なぜ中国はここまで横暴で周辺国と揉めるのだろうと思っている人もきっと多いかと思います。本記事は中国はなぜ周辺諸国と揉めるのか歴史的な背景を通してその理由について解き明かしたいと思います。
(この記事は、『マンガゆげ塾 中国とアラブが分かる世界史』を参考にしております。)

中国が周辺諸国に対して横暴な理由はズバリ以下になります!
➡中華思想という”プライド”と列強の餌食となってしまった”トラウマ”から外交関係の悪化も辞さず周辺諸国に対してガンガン暴力を行使するのです。

それではこの中国の歴史について順を追って説明したいと思います!

目次
・中国のプライドとは
 -中華思想(プライド)
 -冊封体制(対外政策)
・中国のトラウマとは
 -アヘン戦争
 -日本の中国大陸進出

●中国のプライドとは
-中華思想(プライド)
中国は古代から人口が多い国で黄河流域、長江流域はヒエ・アワ・キビといった穀物や豊かな水田が人々に恵みをもたらしました。そしてその高い農業効率は、農作業をせず勉強に集中出来るいわゆる”読書階級”の形成を可能にしました。そしてその高い農業生産力は第2次、第3次産業への労働力投入を可能にしました。やがて、物々交換だけで生計を立てる商人が登場しました。商工業は、農業に比べて多くの記録が必要になります。(第1次は農業、第2次は工業、第3次は商業になります。)

こうした背景から古代中国では文字が多用されておりました。文字は木の板や竹の板に書いていたのですが、いわゆる木簡や竹簡はかさばって重く管理も大変だったのですが、こうした問題を解決したのが「」の登場になります。紙はこうした中国の莫大な文書量から生まれた大変便利なものなのでした。こうした紙の登場により、中国の文明はさらに発展していきます。

大航海時代を導いた「羅針盤」、重装騎兵を打ち抜いた「火薬」、宗教改革を生んだ「印刷技術」の3大発明が生まれます。こうしたことから中国の文明を学ぼうと近隣のベトナム、日本、朝鮮といった国々は中国に留学生送り込み、紙や漢字などの中国文化を学びました。日本の遣隋使はまさにこれにあたります。


「中国」「中華」とは世界の中心の国、世界の中心の華という自信とプライドからくるネーミングであり、こうした中華思想は今でも中国に根付いているのです。

-冊封体制(対外政策)
当時、主権国家(主権・領土・国民の三要素を持った近代の国家形態)の概念がなかった中国では、皇帝が全世界の支配者であり国境線という概念は存在しませんでした。

しかしながら、直接管理しても採算が合わない貧しい周辺諸国においては、間接的に支配しました。これを「冊封(さくほう)体制」と言います。例えば、朝鮮の王様が中国に使いを送ると朝鮮の王様の使いが頭を下げれば下げるほど、貢物を持って行けば行くほど莫大な量の返礼をもらえたのでした。これを「朝貢(ちょうこう)貿易」と言います。朝貢貿易の損失よりも中華思想というプライドを満たすことが重要だったのです。


日本においては、皇帝と同義である「天子」や「東の天皇」と書かれた聖徳太子からの手紙に隋の煬帝は怒り心頭でしたが、卑弥呼は中国の皇帝に日本の統治を認めてもらう形を取ったため、たくさんの返礼品を手にしたのでした。
時を経て足利義満も日本国大王の地位を皇帝から形式的にもらい朝貢貿易の利益で金閣寺を建立しました。

●中国のトラウマとは
-アヘン戦争
産業革命により機械が発明され大規模な工業都市が生まれたイギリス。上流階級で愛飲されていた紅茶でしたが、経営者は覚醒作用のあるカフェインを労働者に摂取させるようになりました。

当時、お茶のほとんどは中国で生産されており大量の茶を求めるイギリスは中国に使節を送りました。国家間は対等であるという思想を持ついわゆる主権国家(主権・領土・国民の三要素を持った近代の国家形態)体制のイギリスと国家という概念が曖昧な冊封体制の中国の両国が相容れるはずもなく1840年に第1次アヘン戦争が勃発してしまいます。結果は、イギリスの圧勝でした。

そして、さらに内陸にも綿製品を売りたいと考えたイギリスは1856年に第2次アヘン戦争、通称アロー戦争を起こします。これもイギリスの圧勝で終わり中国から利権をもぎ取ったイギリスは第1次アヘン戦争での5か所の港と第2次アヘン戦争での11か所の港を追加した合計16の港で自由に貿易出来るようになりました。

こうして次から次へとロシアやドイツやフランスといった列強による中国の半植民地化が進められ工業製品の輸出だけでなく、お金の貸し付けや鉄道・工場などを建設していき鉱山採掘や鉄道の敷設を容赦なく進めていきました。

-日本の中国大陸進出
1904年の日露戦争に勝利した日本は南満州鉄道を獲得し、中国大陸への進出を本格化させていきます。議会主導のイギリスが中国を間接支配である半植民地化したのに対して、軍主導の日本は満州の、ひいては中国大陸全土の直接支配を目指すこととなります。満州事変、日中戦争と戦火を拡大する日本に対して中国陣営は国共合作として蒋介石率いる国民党と毛沢東率いる共産党は内陸に拠点を移し戦争が長期化することで持久戦となりました。中国農民たちは共産党の指導の下ゲリラ戦を展開し、結果日本は140万以上の兵を投入して都市と鉄道を支配したものの中国を奪うことは出来ませんでした。

第2次世界大戦終戦後、国民党と共産党の内乱により国民党は台湾へ逃亡し、共産党率いる毛沢東が中華人民共和国が設立しました。中華人民共和国はそもそも共産党が外国勢力を排除するいわゆる攘夷派が建国した国家になります。

アヘン戦争から100年間外国の食い物にされてきた中国。アヘン戦争から日中戦争までのこうした中国の歴史的なトラウマが国際協調に欠け、軍拡を繰り返し軍事衝突も辞さないといった国家になった理由になるのです。

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