「新しい人間」を目指した英雄!キューバの革命家チェ・ゲバラとは

教養/豆知識

「チェ・ゲバラ」その名を知っている方はきっと多くいらっしゃるのではないでしょうか。名前は知らなくても、髭を生やしたこの凛々しい顔をご覧になった方も多いかと思います。Tシャツにプリントされていたり、いろんなところで見かけたり、聞いたりしますよね。しかし、何をした人なのかフワっとしている方も多いのではないでしょうか。多くの人が革命家や英雄としてのイメージがあるかと思いますが、改めてチェ・ゲバラの生涯について簡単にご紹介したいと思います!
こちらはNHK「ザ・プロファイラー」を参考に掲載しております。

 

●プロフィール
名前 エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナ
出生 アルゼンチン北部ロサリオ
出世 1928-1967(39歳没)
肩書 アルゼンチンの医者、キューバ革命家、キューバの英雄
その他
「チェ」は愛称でスペイン語で「ねぇ」という意味。
キューバの農業発展の参考のため、日本に訪れ広島にも来訪。
ジョン・レノンが世界で一番かっこいいと言った人物で、イマジンの歌詞がゲバラそっくり。

 

●生涯
-アルゼンチンの医者、自分探し

1928年、アルゼンチンにて誕生。実業家の父と政治家の娘である母のもとに生まれる。家庭は裕福であった。
ゲバラは病弱で2歳の時に喘息性気管支炎にかかる。頻繁に起こる発作のために、学校にもあまり行けなかった。教育熱心な母親から指導を受け、3000冊を超える蔵書を読むほど読書に夢中であった。
19歳で国立ブエノスアイレス大学医学部に進学する。自分と同じように病で苦しむ人を助けようと医師を目指したからである。しかし、この時ゲバラは将来に対して迷っていた。
1951年、23歳の時の日記に、「僕は薬学研究所にも病院にも試験にもうんざりしていた。」と残されている。そして同時期にゲバラは医者の友人とともに、ラテンアメリカの旅に出た。この旅の大まかな方針は、行き当たりばったりであった。ゲバラの1回目の旅はオンボロバイクにわずかな資金でブエノスアイレスを出発し、南米大陸西部のチリに向かいそのまま北上し、ペルー、コロンビアを通りベネズエラまで行くというプランであった。
2ヶ月後、チリに到着するとゲバラは貧しい民家に住む喘息患者を診察する。自分と同じ病気を持った人に出会うが、貧しいため薬が手に入らない状況を目の当たりにする。1950年代のラテンアメリカ諸国は、貧富の差が問題となっていた。大地主や政治家など一部の人だけが美味しい思いをし、国民のほとんどは過酷な生活をしいられていた。ゲバラは次第に不平等な世界で喘ぐ人々に想いを寄せていく。

1953年、25歳で大学を卒業すると、2回目のラテンアメリカの旅に出発する。今度は、世の中の貧困をどう解決するか、その方法を探しにいく旅であった。最初に訪れたのはボリビアであり南米でも特に貧しい国であった。しかし、当時このボリビアでは革命が起き貧しい国民がクーデターを起こしていた。

次に目指したのは中南米のグアテマラであった。1950年にアルベンス政権が発足し、農地改革が進んでいた。それまでグアテマラでは国土の70%を人口2%の大地主が所有しており、農業の利益のほとんどを大地主が貰っていた。そこで農地改革により、この大地主の土地を政府が安く買い取り、農民に平等に分配し利益が得られるようにしたのである。ゲバラでここグアテマラで、人々と貧しい生活を共に行うこととする。
1954年、26歳の時、グアテマラをホンジュラスとエルサルバドルが攻撃する。この2国の背後にいたのはアメリカであった。この当時、アメリカの大企業の多くが中米やカリブ海諸国の多くの土地を所有していたが、グアテマラの農地改革で損害を被ったアメリカがグアテマラ政権を倒そうと動いたのである。ゲバラもついに銃を持って戦おうとするが、同年アルベンス大統領が逃亡し、政権は崩壊する。ゲバラも国外脱出を余儀なくされる。しかし、ゲバラはアルゼンチンへの帰国ではなくメキシコに北上する。

 

-弁護士カストロとの出会い、革命への旅立ち

1955年、27歳の時、メキシコに滞在する。そこで過ごした仲間達の多くはキューバからの亡命者であった。その亡命者のリーダーが29歳の裕福な階層出身の弁護士フィデル・カストロであった。キューバ政府に対抗し革命を起こそうとしていた。当時、キューバのサトウキビの輸出の利益はアメリカ企業と大地主が独占、富裕層と貧困層が明確に分かれていた。国内には革命の機運が高まりつつあった。カストロは、富裕層出身だが、貧しい人々の救済を志していた。カストロはかつて、仲間を率いて軍の兵舎を襲撃するなどしていた。戦いには負け、メキシコに亡命したがキューバの民衆のヒーローであり、希望の星であった。
そして、カストロはあったばかりのゲバラに「キューバをアメリカ人どもの侵略と搾取と抑圧から解放するには武器を取って闘う以外、道はない!」と説得した。そこで意気投合し、貧困をなくすために命を賭けることとなる。
1956年、28歳の時にゲバラを乗せた一隻の小さな舟はメキシコを出発し、キューバの東部シエラ・マエストラを目指し現地の同志と合流しようと企てる。しかし、上陸した瞬間にキューバ政府軍の狙撃に合い、カストロ率いる兵士は散り散りばらばらとなってしまう。82人であった兵士は12人となり、作戦はあきらかに失敗となるが、ゲバラは「大丈夫!きっと勝てる!」と鼓舞した。
シエラ・マエストラを目指して政府軍は2万人の兵士を送り込む。カストロは、ゲリラ戦で戦うにあたり、闘いで負傷した兵士は、敵であっても傷の手当をして釈放するようゲバラに進言する。ゲバラは当初反対するが、革命軍の戦いの中でも命を救おうとする姿勢に周辺住民からの支援が集まりだすことになる。ゲバラは戦いの中で診療所を作り、無償で農民たちの治療を行い、そして村の子供や革命軍に参加した若者に教育を施していく。こうして革命軍は、12人から400人に増えていった。
1958年、30歳の時、ゲバラ率いる革命軍はキューバ中心部サンタクララを目指して300人の兵士を率いて出発する。迎え撃つ政府軍は6000人であった。ゲバラは政府軍の装甲列車を転覆させることに成功し、激戦の末サンタクララを掌握する。
1959年、革命軍の攻撃を恐れてキューバ大統領が亡命する。そして、革命軍は西部にある首都ハバナに到達する。カストロ32歳、ゲバラ30歳であった。

 

-理想の国作り、盟友カストロとの別れ

1959年、カストロは首相に就任し、キューバの新しい国作りが始まる。ゲバラもアルゼンチンには帰らず、キューバでカストロを支える道を選ぶ。
1960年、31歳の時、ゲバラは国立銀行総裁、1961年には工業大臣に就任する。
目指すはアメリカからの影響を脱した上での産業、経済を打ち立てることであった。農業では農地改革を行い、土地を国有化し農民に分配した。そして、工業近代化を目指し各地を視察していく。ゲバラは休日には、建設作業や小麦工場で働き、大臣としての衣服を脱ぎキューバの人とともに汗を流して働くことを生きがいとしていた。私生活では、4人の子の父親となる。
そんな中、1962年、キューバ危機が起こる。アメリカと対立していたカストロは、ソビエトに接近する。キューバにアメリカをすぐに攻撃出来るよう核ミサイルが配備された。これに対し、アメリカは軍艦を派遣しあわや米ソの全面的な核戦争勃発寸前になる。
1964年、35歳の時、ゲバラは国連総会でアメリカを公然と批判する。その批判は、アメリカのみならずアジア・アフリカ経済会議でもなされた。「欧米列強諸国の高い生活水準は、我々、途上国の貧困の上に成り立っている。もし、途上国が惨めになることによって社会主義国家が高い生活水準を保っているとすれば、帝国主義的搾取の共犯者と見られても仕方がない。」と主張。しかし、この途上国から搾取する社会主義国家とは暗にソビエト連邦を指していた。
ソビエト側につくことでキューバを守ろうとするカストロと袂を分つこととなる。
この発言からキューバに帰国したゲバラは7日後に姿を消し、新たな革命の地を目指した。世界のどこかで苦しんでいる人を助ける「新しい人間(他人のために進んで働く人)」となることを目指した。

 

-新たな地へ、ボリビアで去る

1965年、36歳の時、キューバを離れゲバラが向かったのはアフリカ中央にある独立したばかりのコンゴ民主共和国であった。当時激しい内戦の最中であり、部族間の争い、元宗主国(他の国に対して強い支配権を持つ国)ベルギー、ソビエト連邦、アメリカが次々と介入していた。
民族を解放し、平等な世界を目指そうとする革命軍に対してゲバラは協力する。ゲリラ兵士を指導するとともに、自らも戦いに参加した。しかし、ゲバラはコンゴの革命軍に馴染めず、よそもの扱いをされる。失意の中、ゲバラは半年でコンゴを去ることとなる。
1966年、38歳の時、キューバに帰国する。子供達への手紙を残していく。
同年、ボリビアに入国する。この地は25歳の時に旅で訪れ格差を目の当たりにし、革命を目指した所であった。ゲバラは現地の仲間とともに民衆を抑圧する軍事独裁政権に戦いを挑む。しかし、アメリカの支援を受けた政府軍に苦戦する。ボリビアの民衆もゲバラに味方することはなかった。
1967年、39歳の時、1年近い戦いののち、ゲバラはボリビアの政府軍に捕らわれる。そして、翌日銃殺される。ゲバラの遺体は見せしめとして地元の住民達に公開された。
ゲバラの最後の言葉は、銃口を向ける若い兵士に「撃て、恐るな!俺はただの男にすぎない」と言われている。

●感想
「傍観者ではいけない」、「引くに引けない正義感」、「子供のような冒険心」を死ぬまで持ち続けたのがチェ・ゲバラ。彼は、資本主義のアメリカでも、共産主義のソ連のどちらでもない何にも縛られない自由で平等な理想の国作りを目指し続けました。そして、彼が自分自身のモットーである他人のために進んで働く人、すなわち「新しい人間」は現代社会においても登場していません。であるからこそ今でも彼は、偉大な革命家であり、英雄として輝き続けているのだと思います。コロナ禍である今、現代社会を生きる全員が新しい人間を目標にし、近づいていくことでよりよい未来を築いていくことができるのではないでしょうか。

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